ホチキスにみつしりと銀詰まりをりたまらずわれの犯す空撃ち

藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

 

「詰まりをり」ということなので、歌のスタート地点ではすでにホチキスの銀の針が詰まった状態である。ただし、ホチキスの針がどれくらい詰められているか、使い始めにいきなり気にする人をこれまでに見たことがない。ホチキスには銀の針が装填されているのを当然のこととして使い始めるのがごく一般的な動きになるのではないかと思う。それなのにこの一首の主はホチキスに銀の針が詰まっていること、しかもみっしりと完全に詰まっていることを知っている。なのでこの歌はもしかしたらホチキスを使っている最中に針がなくなり一回スカッと空振りをし、ホチキスを開いてみずから針を装填しているような気がする。下句「たまらずわれの犯す空撃ち」の異様に高いテンションを考えあわせても空振りからのホチキス装填という地味な作業が、ジャンプする前の沈み込みとなってこの一首のテンションの高さをみちびいているのだと理解するのがもっとも腑に落ちる。

短歌のなかにいる「われ」はだいたいが前後を切り取られ、切り残された「われ」である。その存在の瞬発力が歌の否応もない魅力となるのはその通りなのだけれど、そしてこの歌も「たまらずわれの犯す空撃ち」にはそうした瞬発力を見て取ることができるのだけれど、この歌の瞬発力は何かしら不自然な瞬発力だと感じさせるところがある。つまり、切り落としが深い。この切り落としの深さによって、切り落とされた「われ」の未練のようなものが透明のまま一首にもたれかかっている。未練をもった「われ」とはここでは「空振りからのホチキス装填という地味な作業」をしていた「われ」だということになるだろう。未練をもった透明な「われ」のただよいを一首のなかに見出してはじめてこの歌の最終ピースがはまる。ほとんど心霊写真のようなかたちにも見えてくるが、切り残された「われ」以外の「われ」がむしろ一首の要となっている点が歌というものを考えるうえで示唆的である。また、「空撃ち」の言葉づかいも示唆的で、針がゼロのままホチキスを打つのも空撃ちと言えるし、紙をかませず何もないところで針の入ったホチキスを打つのも空撃ちと言える。ここでは後者の意味での空撃ちということになるが、やはりここにも針がゼロという事態の亡霊がちらりと顔を覗かせていてぞくぞくさせられる一首である。

 

はなざかり おそらくさうである道をあかりもなにもつけないで ゆく

 

 

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