『ねじ花』なみの亜子
どのようなときも本質的には人は何かを待っているのかもしれない。「待つ」と終止形で書くとき、そこにはこの世すべての時間が含まれうる。次の朝を待ち、夕べを待ち、人を待ち、生の始まりも終わりも、すべてが訪れるべく待たれている時間である。反面、「待つ」という動詞はさまざまな主語も目的語もとることができるが、みずからの行動を通してその状態を作り出したり、改善したりすることはできないため、どこか主体性にかけ、時間という大きすぎる枠組みに対して隙間なく広がっているものであるだろう。
この人には「待てるようになった」という実感がある。いま書いたように、ほんらいは主体的な営みでもないように思われるが、まず「待つ」から「待てる」に至る動詞の変化がある。たしかに「待てない」という心の状態が「待てる」に変化することには、とても大きな違いがある。「待てる」というのは、全部ではなくても世界の持続を信じていられるということだ。この世界がいつなんどき変わってしまうかもしれない、いやいま現在の心の状態が信じられるものではない、と感じていると、とても「待つ」だけの余裕はなくなる。もちろん世界はいつも不安定で、絶えず危機にさらされているが、その不安定さの底、荒波の下にある不動の海底みたいな場所に対する、ほのかな信念のようなものが芽生えているように見える。「待てるようになった」という活用によってさらにこの信念は引き延ばされ、歌の中でたしかな存在感を持つ。「待つ」という受動的なあり方を、言葉により奪回することを通して、主体性の回復が示されるのだといえるだろう。
ふたたび目覚めた「わたし」は、それまでの「わたし」と重なりながら少しだけぶれた状態でもあって、その振動の中で「褒めてやる」という感情のはたらきが生まれている。これはなんと幸福な主体のくずれであるだろう。まるで駅舎の窓のひび割れを通して、鳥が入り込んでは巣を作っているような、そういう光景がそのまま歌になってしまっているのだと思う。そのうえ鳥は一度きり訪れるのではなく、繰り返し、季節をかさねながら通ってくるのだという。「待てるようになったわたし」には幾分の迷いがないわけでもないと思うが、この歌の風通しがよい、という印象は忘れられない。
