早月くら「回遊」(「置き場」第13号)
忘年会の時期だから、というわけでもないのだが、忘れることについての一首。生き続ければ生き続けるほどにとんでもない数のものごとを忘れていくのが人間だけれど、忘れたことは忘れているので、どれを忘れてしまったのかは分からない。ましてや「忘れゆくこと」の「順序」について正確に把握をするのは難しいはずで、「忘れゆくことに順序があるのなら」の空中に消え入りそうなおずおずとした仮定の置かれかたにはそうした忘却に対するそれこそ地に足のつかないような怯えを感じる。忘れることに順序があって、もしその順序を知ることができれば忘却に対する怯えも減るのかもしれない。いや、大事なことはそうそう忘れないだろう、という思いが一瞬よぎったりもするけれど、そうした思いとはうらはらに大事なことをすっかり忘れ去っていたりするのが人のランダムな記憶の怖さなのだとも思う。忘却に対する怯えや怖さにこの歌の焦点は当たりつつ、一方で忘れたくなさが一首の裏地となっているのだという気配も感じられる。
ただ、この一首が明確に示している忘却の順序がひとつだけあって、それは背面の記憶の脆さだろう。椅子には背もたれのある椅子、背もたれのない椅子それぞれあるとして、人が椅子と接する面は背中にしても臀部にしてもてのひらにしてもすべて背面である。幼いころの、大人用の椅子に座って足が地面に届かずぶらぶらさせていた記憶のなかにその椅子がどんな椅子だったかの記憶はない。さまざまな場所で足のつかない椅子に座り、足が地面に届かないことの心もとなく、その心もとなさがまた楽しかったような記憶は残されていながら、背面に存在していたはずの椅子自体の記憶は早いうちから退場していく。ただ、「踵のつかなかった」記憶を呼び戻すたびに、記憶から退場してしまった椅子たちの透明な骨格が踵のつかない幼い身体を支え、踵のつかなかった幼い日の記憶を今になっても支えている。椅子たちの姿かたちを呼び戻すことはできないけれど、みずから記憶の水面下に没しながら踵のつかなかった日々の記憶を押し上げているのはそうした椅子たちである。
それぞれにソファーの試し方がありあなたは左手で深く押す
