一樹ひとき一樹ひとき青葉こまやかに吹く見ればどの木も仕事してゐるごとし

『ネフスキイ』岡井隆

この歌は「一樹」をモチーフに始まるけれど、実際には道を続いていく街路樹の様子から浮かんだものだろう。林道は近いかもしれないが、ランダムな雑木林ではなさそうで、「一樹一樹」と連なった表現がわざわざ初句に置かれていることから、そのような印象を受ける。道に沿って、同じくらいの背丈とサイズをした同じ種類の木がずっと並んでいる様子。なぜかそれが「続いていく」という直感がある一方で、徒歩でも、車でも、それぞれの木とはほんの一瞬すれちがうのみである。一本の木を数分かけてまじまじ望んでみても、次の木をまじまじ見つめることと、受け取れる情報量や印象はそう変わりない。一瞬しかすれちがわない木の、わずかな印象のうち、この歌では風に吹かれる葉の状況にフォーカスしている。連続する木の風景が、韻律の動作の中でさらりと「青葉」のディテールに変化している。一本ずつ狂いなきように並んでいると見える木々が、それぞれ異なるやりかたで、枝よりもさらに微細な青葉を震わせている。下句ではふたたび「どの木も」と名指しされることで、「青葉」の動きを通して分離した木々のイメージはふたたび集約される。その瞬間的な透視により得た印象がなにであったのかというと「仕事してゐる」ことだったのだ、というのがこの歌の結論部にあたる。まずはなすすべなく通り過ぎてしまうのだけれど、それに注意深く抗うとすれば一本ずつの見え方がばらばらに分かれていくこともあれば、かなり似ていると感じることもあり、歌ではなかば付近の凝視とおしまいの類型化とで二つの視点が流れるように示されている。

言うまでもなく人間の例えとして書かれているのは、「仕事してゐる」という擬人法だけによるものでもない。この青葉は、ふだんの言い回しに近づけると風に「吹かれている」ものが、ここでは巧妙に「細やかに吹く見れば」と折りたたまれている。外からの影響を受けつつも、みずから「吹く」という働きを心がけているようでもあり、またこの人には木々の営みはそのように見えている、ということにもなる。「仕事してゐる」という状態が、まさしく外を吹きすさぶ風にあたりながら、自分に対して風を吹かせ続けるような、そういう比喩であることをこの歌はかねている。そうした「仕事」へのまなざしが、文語の腕力も借りて、木々にたとえられた人間の人間らしさにひそかに厚みを与えているのだとも思う。

だいぶ寒くなってきたので、待ち遠しくなって四月の歌を引いた。まだ冬は続くから時間はかかるだろうけれども、まずは暦の春を、また過ごしやすい気温になるのを、忘れず準備をしながら待ちたい。

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