中津 昌子


街上(がいじやう)の焚火にあした人あらずしづかなるかなや火をぬらす雨

高野公彦『汽水の光』(1976年)

 

 

朝、路上に火が燃えている。
それを取り囲む人たちはおらず、雨がただ降りかかるという。

読んでまず、「しづかなるかなや」の字余りの詠嘆がやわらかく胸にひびく。

 

焚火というものは、あたる人がいる時、いかにもあたたかい光景を作り出す。
だが、ここには誰もいない。
この歌の人(たち)は、どこへ行ったのだろう。
現実的には、火にあたった後、朝の作業に散っていったということかもしれない。
だが一首からは、もとよりそこには誰もいなかったかのような印象を受ける。

 

ところで「火をぬらす雨」とは、よく考えてみると、妙な表現である。
火は濡れるものではない。
だが、こううたわれることによって、火と水は共存し、燃える炎と雨とは透明に重なり合う。
この上なく、しずかでうつくしく、人を深いところへ運ぶ表現だ。

その思いをもってもう一度、「しづかなるかなや」に込められた思いを味わい直すのだが、このふくらみある表現を、うたいはじめの「街上」というかたい漢語が、鋭さをもって引き立てていることに気づく。
また、ひらがなの多いうたいぶりの中にあって、「人」「火」「雨」の文字が浮き上がるように目につくことを思う。

 

生活の場から生存の根源へとおろされるまなざしが、磨きぬかれたことばの技をもって、詩へと昇華されている。