前登志夫『野生の聲』
今日は大寒。昨日より冷え締まった。私の住む京都は曇りだが、3日前の朝にはうっすらと雪が降り積もった。身体の外側は寒いが内では何かが小さく燃えている。みずみずしささえ感じながら、駅へ向かった。
『野生の聲』は、2006年暮れから2008年3月までの前登志夫の最晩年の歌を収める。
「私は少し生き過ぎたのかもしれない」。問いとも呟きともとれる上句の言葉は、死を現実のものとしてつきつけられて初めて抱くものだろう。上句の言葉に森は応えず、静かに厳寒の季へと移っていく。この森の姿を何ととらえるか。
「大寒」という言葉の効果か、この森にはどうしても雪が積もっているように思える。前の随筆集『羽化堂から』によれば、前の吉野の家は標高550メートルのところにあり、京都の洛北や近江の北の方よりは雪は少ないという。ただ、真冬には夜明けにしばしば沫雪(あわゆき)が降り、山を下りるのに苦労することもあるという。大寒に入りゆく森にも沫雪がうっすらと積もっていたのではないか。
前には雪の歌が多い。先の随筆集で「雪がふるとわたしはたかぶる」と書くほどで、子供のころから雪に向き合い、雪を愛してきたようだ。『野生の聲』の雪の歌にもさまざまな表情がある。
はやすでにわたくしといふもの無きとしれ雪雲(ゆきぐも)炎えて山の空ゆく
杉山に雪降りくればちちははの追善供養するここちせり
冬の夜をねむらず歩むけものをり雪うすく敷ける星空の下
見舞ふとはやさしきことば立枯の木にふりつもる雪のしづけさ
わがいのちはや盡きたるか恥ふかきこの生のはて雪ふりしきる
「わたくし」を超えて超然と空をゆく不思議な雪雲、父母を供養する雪、雪の上に生きるけもの、「見舞ふ」というやさしいことばを思わせる安らぎの雪、「恥ふかき生」のはてに至ってなお身を苛むように降る雪。いのちのあらゆる表情の具象として、前の雪はある。
沫雪の積もった大寒の森は、いのちを包容するものとして立ち現れ、前をいざなったのではないだろうか。
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