栗原寛『月と自転車』
ほかの客も、駅員もいない自動改札。終電かそれに準じる時間か、利用客も少ない。たぶん、大きな駅やベッドタウンの終着駅ではなく、路線途中の小さな駅だろう。こうして、誰からも見られていない瞬間に、定期か切符かを改札機に投じ、作者のひと日の儀式が終わる。改札機のあちら側にいた日中は、社会という「無言劇」に出演していたのだという。さあ、これから帰宅し、眠るまでのわずかな時間が「有言劇」、つまり、自分の時間だ。
社会に生きてれば、当然いろいろとコミュニケーションをとることになる。作者だって、普通に会話してすごしてるはずだ。でも、栗原にとってそれらの言葉は、自分の言葉ではない。社会での「役割」を果たすために、誰かの指示でしゃべらされている言葉に過ぎない。だからそれは、無言劇のパントマイムのように、沈黙となんら変わらないものなのだ。
どこか苦しく、でも、どこか青年らしい自負心と、繊細な猜疑心に満ちた歌だと思う。社会生活の比喩として、「無言劇」という言葉を選ぶところなんか、ちょっととんがった感性を思わせる。いついかなるときも、自分の人生は「劇」なのだという。そして、この若者特有の心に、なんとなく共感する。
男らしさを誇示する人の多ければ西武池袋線はまたせまくなる
男にて生ませざること男にて生みたしと思ふこと罪なりや
おまへといふ人称名詞をためらはず吐き出す君の男らしさは
世上が求める「あるべき姿」への反発。栗原の場合、それは「性」に絡んだ問題として顕著に浮かび上がってくる。男であること。男はこうでなくてはならない。それをいったいだれが決めたのだろう。そして、男であることへの圧迫に対して、栗原は歌で、小さな歌で抗おうとしている。
目を閉ぢれば愛撫は同じ響きにてウォーターベッドに沈みゆくのみ
曝しゐる肌に潤滑油のごとくまつはる夜気に犯されてをり
ただ一度徒競走で君に勝ちしこと懺悔のごとくわが胸にあり
誰にでもほほゑみかける少年の乱反射する光のごとく
こういった美と性愛への嗜好、燦たる少年性への憧憬もまた、上記の「抗い」と無関係ではないだろう。短歌において繊細であることはまた、小さな闘いでもあるんじゃないだろうか。
ご縁あって、つい先日、稀少本らしい『月と自転車』を入手できたので、大好きな『黒耀宮』の隣に並べて本棚に入れました。
無言劇のお歌は、私も印象に残りました。
私自身も、物心ついた頃から性別による制約や圧迫に心の限りに抵抗していたので、逆の立場(♀)ではありますが、自分の人生の一つのテーマとして共感できます。
今でも過剰に反応してしまうテーマ…かもしれない。
自身の中では、今では葛藤を超えたスタンスを見つけたので、歌を作ろうとした時にテーマとするか…といえば、していません。
でも、自分の問題としては落ち着いても、外側に目を向ければ理不尽さはまだまだ横行しているわけで…
自分の平穏のために、そういう事柄を視界から遮断しているのはよくない、と改めて思いました。
歳は重ねましたが、歌集を読みながら、もう一度、全霊で抗ってつっぱっていた季節を思い出してみます。
きっと、いくらでも言葉があふれてくるテーマなのだけど、歌というかたちの中に切り取ることで、より鮮烈に鋭さや繊細さが伝わってくるのでしょうね。
(変なコメントで、誠にすみません…)
そうですね。歌という定型に封じるという作業そのものがまた、「詩」でもあるのでしょう。