黒瀬 珂瀾


知る人ぞ知る体温として残れかし辞書への赤字を日々に重ねて

大島史洋『封印』

 

作者は何か願っている。「体温として残れかし」=体温として残ってほしい、という。「知る人ぞ知る」とある通り、その願いの結果は余人に知られずともよい。では、体温として、いったい何を、どこに残したいのか? それは下句に書かれている。

「赤字」は校正作業のことだろう。何日にもわたって、ゲラの間違いに赤ペンで修正指示を書き入れ続けるのだ。一冊の辞書を新たに世に出すため、何度も校正を繰り返す。書籍に誤植はあってはならないが、現実的にまま見落としは起きる。しかし辞書は、物事の正誤判断のための書籍だから、特に誤植は許されない。分厚い頁数にぎっしり詰め込まれた無数の文字。それを一字一字チェックするのはさぞ精神が擦り切れ、目を痛めることだろう。

こんなに苦労を注ぎ込んでも、自分の名は出ない。監修者、執筆者の名前は掲載されるが、出版社の社員である担当編集者の名は、辞書には刻まれない。だから作者はひそかに思う。「自分の情熱が無言の体温となり、この辞書に宿ってくれればそれでいい」と。「体温」という言葉の選択が絶妙だ。自分と辞書とがまるで、同じ血が通う肉体の一部になったかのようだ。

 

  今日ひと日わが書き入れし赤字の量体温として残れかしこの辞書に

 

歌集中には、同主題の歌がもう一首繰り返される。掲出歌は「日々」の歌であり、上の一首は「今日ひと日」の歌だ。作者にとっていかに校正作業が大切な、そして、自負のある仕事であったかの証だろう。「今日ひと日」の歌の方が意味は取りやすいが、「知る人ぞ知る体温」という謎めいた初句の魅力や下句の韻律の落ち着き方などもあり、僕個人は「日々」の歌の方が好きだ。

 

  幸せな世代でありしと言われむかいかなる兆しも知らず逝きしと
  奇岩など置かぬ日本の庭のさま西湖より帰りしみじみと見つ
  既視感(デジャビュ)とはおのれ古りたるあかしとぞ泰山木が教えてくれぬ

 

流れゆく日々をそのまま受け入れる姿勢と、己の来し方への自負。淡々としつつ、どこか不思議な詩情が漂う。