〝夕やみ〟と呼ばれてわれは振りかへる雑踏のなか探す目をして

 柚木圭也『心音(ノイズ)』(2008年)

雑踏の中の知らない誰かの会話で、不意に気になる言葉が出て、それに思わず振り向くという経験は誰しもあるだろう。「夕やみ」は、雑踏の中で聞くにしては珍しく詩的な言葉で、歩いていた作者はハッとして振り向いたのか。歌の契機としてそのような場面を想像した。

 

それにしても、「呼ばれて」の一語がたちまちに歌を不思議なものにしている。「夕やみ」と言う声が、まるで人の名前を呼ぶように聞こえたこと、作者が何かに呼ばれたような気がしたことなどが読み取れる。そして、「夕やみ」と言った主を目で探すけれども、見つからない。作者は雑踏に取り残され、「夕やみ」と呼んだ声だけが耳に残る。景色ははっきりとは書かれていないが、やはり夕闇に包まれているのだろう。日が落ちて薄暗く、人の顔の見分けもつきがたくなっている雑踏で、声の主も、自分さえも夕闇に溶け込んでいく。

 

思えば、雑踏とは不思議なものだ。知らない者同士が至近距離で行き交うが、コミュニケーションをとることはめったにない。しかし、無数の、それぞれ固有の来歴を持つ生が行き交う場所でもあって、雑踏は生き生きとしている。没交渉だけれども、たとえば知らない誰かの発する「夕やみ」に反応する他人がいて、生と生との一瞬の邂逅が劇的に成り立っている。掲出歌は、その瞬間を凝縮している。

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