宮崎信義『地に長き』
何が透明になるのだろう。水か、大気か、それとも、己の心か。とにかく、濁りを持つものが透き通ってゆくさまは、やはり美しい。私たちのように色を有して生きるものは、どこかで「透明な生き方」に憧れてもいるのかもしれない。しかし、完全に透明になることが出来ない事もよく知っている。だから作者は言う。透明になる「過程」が見たい、と。
何かが純化されてゆく過程。そのために費やされるものもある。濾過するには濾紙がいる。沈殿させるには器具もいる。濁っているものが自らの力だけで透明になることは難しい。作者が見たいと言う「過程」には、そんなものも含まれているのだろう。だが、本当に見たいのは「紙一重」の、完全に透明になりきる寸前……いや、むしろ、濁っている存在は、完璧な透明に一体どこまで接近できるのだろう、という興味なのかもしれない。もしかしたらそれは、私たち人間はどこまで人であることから脱することが出来るのか、という問いなのではないか。
一読分かるように、この歌は定型ではない。宮崎は昭和初期の新興短歌運動に参画し、2009年に96歳で亡くなるまで一貫して自由律短歌、いわゆる「新短歌」を作り続けてきた。宮崎の新短歌からは、一首ごとに定型の問い直しを繰り返してきた、強靭な詩精神が感じられる。
体重をのせて話がしたい 乾杯!は何度でもよいものだ
ビルは見上げるものか見下(おろ)すものか民主主義ではどうなるか
冒頭の掲出歌も含めて、これらは82歳ごろの作。なんとも爽快な感情の高まりと、現代への直截な問いかけに満ちている。自由律短歌とは定型の否定ではなく、定型と非定型とのせめぎ合いの中から、文字の意味以上のポエジーを紡ぎ出す詩型なのではないか、と思う。
塗りたてのペンキが光る海が光る私が追い越すことだってある