夜の更くるお茶の水橋の下びには人面(じんめん)なして葛の葉が吹く

河野愛子『反花篇』(1986年)

鈴木竹志の新著『孤独なる歌人たち 現代女性歌人論』(2011年5月)中の河野愛子論を読んでいて立ち止まった1首。

 

実際には、お茶の水橋の下の水辺に群生する葛の葉が風に吹かれている景色がモチーフになっているのだろう。しかし、鈴木氏も書いている通り、歌の言葉としては「吹か」れているのではなく、「吹く」である。「吹く」といった途端に主語が「葛の葉」になり、まるで葛の葉群が意思をもって一斉になびいているように読める。なんとも妖しい存在感だ。

 

河野愛子は、見えるはずのない(しかも夜更けの)葛の葉の不気味な姿を「見る」。鈴木氏は、これを「幻視」といい、ほとんど話題になることがなかった第6歌集『反花篇』に多く含まれる「幻視」の企みを高く評価している。そして、河野愛子の幻視を、根は日常の世界にあり、「日常の世界がずれてしまうものである」として魅力を読み解いている。「幻視」と呼んでも決して間違いではないだろうこの歌の魅力は、しかし、写実をつきつめたものと言えるかもしれない、とこれは私の感想である。

 

葛の葉の一枚一枚が大きく繁茂している様子を鋭く描出しようと言葉をつきつめ、風に「吹かれる」という受動的な表現よりは、まるでおのずから動いているかのような感触を示す「吹く」に行き着いたのではないか。「人面なして」も葉の形態を凝視したすえに得た喩えではないか。結果として、1首は幻視的なものになっているけれども、方法は写実の極みをいっているのではないかと思う。

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