澤村 斉美


おほははのなづきにしろき花ふれりことのはなべて喪はしめて

本田一弘『眉月集』(2010年)

祖母は病で臥している。この歌での「なづき」は、「頭の中」つまり「脳」と捉えるか、「頭」と捉えるかどちらがいいだろうか。私は「脳」として読んだ。祖母がしだいに、話すことができなくなっていく。そのことを上句で喩えている。祖母の頭の中にある言葉を消えていく。しろき花がふり、言葉をかき消し、覆い隠し、埋め尽くし、失わせていくのだという。しろき花は、自然のままに、花の時期を終えてふるのみである。押しとどめようのないその理の前に立ち尽くす作者の、いいようのないかなしみが伝わってくる。

 

この歌の3首後には次の歌がある。

 君のなづきの沼にふかくふかくしづみたることのはすくふ術はあらずや

「君」は祖母のこととして読める。言葉を発することのなくなった祖母の、脳に沈んだ言葉をすくいたい、祖母の考えていること、思っていることに触れたいと願う。「あらずや」は、そのような術がないと分かっていながら、言わずにはいられない問いかけだ。「ないのか、いや、あってほしい」と心から願う。これら2首、祖母を歌う歌の背景には、人間にとっての言葉についての考察がある。人は、言葉があるからこそ、人と通じ合うことができる。言葉を失った時の人間の限界に直面し、祖母をかなしみながら、人という存在そのものについてかなしんでもいる。

 

 君としも頒ちえぬこと言の葉に写してわれはなにをしてゐる

 闇といふ字をみつむれば平凡な家居の下に音のあること

 もろともの霊蔵はれてにんげんの発明したる電気もて冷ゆ

 

このような歌もある。言葉についての考察、一つ一つの言葉への執着が、歌集の行間ににじみ出ている。