黒瀬 珂瀾


ぬるま湯に蛸踊りつつ死を迎ふ快楽のむらさきのこむらがへり

和田大象『くらはんか』

 

鍋に生け蛸を入れて、茹でるのだという。残酷だが、これも美食の追求心のなせる技だろうか。普通に腸を抜いてから茹でる場合と味は違うのだろうか。蛸は自分がこれから茹でられることも分からず、鍋の中でぬめぬめ足を伸ばし、舞い踊るかのよう。サディスティックな暗い喜びが歌の中に込められている。

 

熱湯に投げ込まれたなら必死で逃げ出そうとするが、ぬるま湯からゆっくり温度を上げられてゆくと、取り返しのつかない状況にも気づかない。そうやって死に直面しつつも死を見つめずに踊ることを「快楽」というのだから、この歌の皮肉は最上級だ。下句の「快楽のむらさきのこむらがへり」の5・5・6音という奇妙な韻律も、K音、R音、M音の響きと相まって、哀れな死の踊りのよう。「こむらがえり」という擬人法的な結句は、茹であがった蛸の足が丸まった様をユーモラスに暗示しつつも、歌の内容を蛸の話から人間の話へと一気にシフトさせる力を持つ。

 

つまり、作者のサディスティックな視線は、蛸にだけではなく、むしろ自分を含めた人間たちにも向けられている。すると「ぬるま湯」という初句も、この現世の比喩のように思えてくる。美味い蛸を食するため、鍋に湯を沸かす作者。その実、自分こそが、ぬるま湯の中で哀れな踊りを続けているのではないか。そんなことを思いつつ、美食にいそしむことはすなわち、死の際を愉しむ背徳をまとった「快楽」なのだ。

 

  指紋に指紋かさねあふ夜のアリバイは美食倶楽部とメモ帳にあり