声もたぬ樹ならばもっときみのこと想うだろうか葉を繁らせて

小島なお『サリンジャーは死んでしまった』(2011年)

恋の歌だ。樹は声をもたない。葉を繁らせて、ただそこに立っている樹へのあこがれがこの歌にはある。結句の「葉を繁らせて」が、風を受けてそよぐ葉や、光を受けてきらきらとする樹の姿を思わせる。そんなふうに静かに、自然に、あるがままに立って、「きみ」のことを想っていられたら、と願う。実際は、人は声をもち、言葉をもち、「きみ」のことばかりを想っていられない。その声で「きみ」を傷つけることもある。「もっときみのことを想いたい」と願う一方で、それがかなわない寂しさのにじむ歌である。

 

  自分の内なる想いを見つめる恋の歌として、同じ歌集中のこの歌、

  きみとの恋終わりプールに泳ぎおり十メートル地点で悲しみがくる

もとてもいい。ひとり水を分けて泳いでいく人の姿は、それだけでどこかひたむきだ。十メートル泳いだあたりで不意に、恋の終わりの悲しみが胸にくる。感情は、論理的に動くものではない。なんでもない時、感情の対象と特にかかわりのない時に、体に宿るかのように不意にわく。どうしようもない感情の生理を、泳ぎながらひたと見つめている。

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