水のごと 身体をひたすかなしみに 葱の香などのまじれる夕

石川啄木『一握の砂』(1910年)

本来は3行の分かち書きである。

 

啄木の歌には「かなしみ」という言葉が頻出する。掲出歌も「かなしみ」が水のように身体をひたすのだという。かなしみに耽溺するふうではない。どうしようもない、逃れられないかなしみなのだろう。夕方のころあいで、「葱の香」は夕飯に使われるものだろうか。青くさくやや辛味のある香りが現実感をもたらしつつ、「かなしみ」の染みついた人の心を際立出せる。

 

  かなしくも 頭のなかに崖ありて 日毎に土のくづるるごとし

 

このような歌もある。啄木の「かなしみ」の歌には、子供が亡くなってかなしい、恋人を思い出してかなしむ、などさまざまな心持ちが反映されるが、掲出歌や、頭の中の崖の歌は理由のない、生きているかなしみとしか言いようがないものだ。啄木は『一握の砂』のはじめの章に「我を愛する歌」と題をつけているが、私はこの題にとても驚いたことがある。歌の内容は、深刻な「かなしみ」から、ふとした心の動きまで、つぶやきのような口調で詠う歌がつづくが、自己愛というより、冷めた目で自分の心を見ていることが分かる。「我を愛する歌」と開き直りのような題をつけるのも、自分の心持ちを突き放しているからこそ付けられる題ではないか。

 

ここに挙げた「かなしみ」の歌2首も、どこか自分を突き放している。だからこそ、「水のごと」という比喩が出るし、「葱の香」という具体に状況を語らせもする。「頭のなかに崖ありて」「日毎に土のくづるるごとし」も同様に、心を突き放して形象化する。自分の心を突き放して見たときに、なお去らず、それどころかくっきりと見えてくる「かなしみ」ほどかなしいものはない。

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