あやまちて野豚(のぶた)らのむれに入りてよりいつぴきの豚にまだ追はれゐる

石川信夫『シネマ』

 

そもそも、野豚の群れに誤って出くわすことがあるのだろうか。養豚所の豚の群れの中に分け入るのなら、体験学習なりでありうるが、掲出歌の場合は「野豚」。このシチュエーション、少なくとも日本では稀だろう。となると、やはり夢まぼろしの世界ではないか。僕などは一読、漱石の一節を思い出した。

 

この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥(はるか)の青草原の尽きる辺(あたり)から幾万匹か数え切れぬ豚が、群(むれ)をなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸(めが)けて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心(しん)から恐縮した。 ――夏目漱石『夢十夜』

 

歌としては文語調なのだけど、なんとなく口語調を感じさせるのは、「あやまちて」「むれ」「いつぴき」といった平仮名がゆっくりした黙読時間を与えるからだろう。どこか舌足らずな感じがして、童話の一節のよう。凶事の前兆である童謡(わざうた)を思わせる、うすら寒い短歌だ。その力の源泉は、石川が短歌に導入しようとしたシュールレアリスムの方法論だろう。当然、歌だけを見れば不条理で整合性もなく、なぜそんな歌を歌うのかもわからない。しかし、それを歌うこと自体が作者の内面の表明であると知れば、歌風景そのものが詩として読者に迫ってくる。つまり、一首全体が、歌以外の何かの比喩なのだ。

 

野豚らの群れをかろうじて抜け出て、必死に走り逃げ、ようやく心を落ち着けて後ろを振り向けば、いまだに一匹が。おそらくこの一匹は今後、永遠に主人公の後ろにつき従ってくる。もちろんこの豚を何かの不安感の象徴として読んでもいいが、やはりこの歌全体を「作者の抱えている心理そのもの」と受けとめたほうが、より不気味さは際立つ。一匹の豚はすなわち、野豚の群れ自体であって、白昼に野豚の群れを幻視してしまう作者の精神を、読者の私たちはそのまま受け止めればいいのだ。

 

  わが肩によぢのぼつては踊(をど)りゐたミッキイ猿(さる)を沼に投げ込む

  パイプをばピストルのごとく覗(ねら)ふとき白き鳩の一羽地に舞ひおちぬ

  あの日われ微笑みを見せぬ今もまたほほゑみてゆかば殺さるならん

  ポオリイのはじめてのてがみは夏のころ今日はあついわと書き出されあり

 

歌集『シネマ』の作品は昭和5、6年の作(刊行は昭和11)。こういった荒唐無稽で、楽しげで、不気味で、優しい歌たちが踊り暮らしていた、昭和初期をちょっと羨ましく思う。

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