澤村 斉美


少年はあをきサロンをたくしあげかち渡り行く日向(ひなた)の河を

前田透『漂流の季節』(1953年)

「サロン」はマレー語のsarong。インドネシアで着用される筒型の腰布のことだ。ロングスカートのようなものである。現地の少年が、サロンをたくしあげて、日向の河を歩いて渡って行く。「日向の河」の眩しさと、異国情緒があいまって、どこか幻のように輝かしい印象をもたらす一首だ。

 

前田透は、昭和15(1940)年、見習士官として中国広東省に赴任したのを皮切りに、仏印国境、海南島、台湾、マニラなど、東アジア、東南アジアを転々とする。1942年にポルトガル領チモールに移動し、主計中尉となる。その翌年にはチモールのオッスという地で現地住民とともに生活し、交流を深める。敗戦後は、チモール島クーパンで労役に服す。掲出歌は「島の記憶」と題された章にある。1946年から1948年に島での日々を回想して詠う章だ。現地住民に慕われたという前田透の目に、彼らはいきいきと輝かしく、理想的な姿で映ったようだ。「さそりが月を嚙じると云へる少年と月食の夜を河に下り行く」という歌もある。一方で、兵としての島での生活も詠われている。

  椰子林の青きは燃ゆるごとくにて月出づれば敗戦の隊を点呼す

  サルタン宮の芝生の上に日はあをく茫々と照り戦犯と呼ばれて並ぶ

 

「島の記憶」を巻頭に置き、次の「運河の岸辺」以降、復員後の生活を詠う。生活への焦りに耐えながら、戦後の日々を。変貌していく街を、生きぬいていく。

  焼あとの運河のほとり歩むときいくばくの理想われを虐(さいな)む

  小さかる事務所をまもり二夏を木のなき千葉の街に働く

  茜する下流に都市が展くるを寂しきこころたもちて眺む 

 

歌集の後記で、父・前田夕暮から引き継いだ「詩歌」を続けることの苦悩にも触れつつ、透は次のように書く。

  
「私は短歌と云ふものを、他の文学形式に比べて過大に評価しようとも思はないし、又単なる装飾的な生活附随物だとも考へない。偶然、歌といふ名前の電車に乗つて了つたまでだと思ふ。さうであるからには歌を信ずるより仕方がない。具体的な生活を引くるめて、歌は私をつれて行く。あるときはニヒルの淵を眺め、ある時は地平線に輝く雲を望んで、私の、歌と云ふ名前の電車はがたぴししながら走つて行くのだが、やはり私は、明るい光の方へ進みたいと思ひつづけてゐる」

 

歌を続けるという意志の力強さが、生きている時代も状況もまったく異なる私の心にとどく。