澤村 斉美


夕皃(ゆふがほ)の花しらじらと咲めぐる賤(しづ)が伏屋に馬洗ひをり

橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』(1878年)

橘曙覧は1868年に亡くなったが、10年後、長男の井手今滋が遺稿をまとめ『志濃夫廼舎歌集』が成った。掲出歌は十二支で表された十二の時それぞれを詠んだ連作から、「酉」の刻の歌である。現在でいうとだいたい午後6時前後である。夕顔の花が白々と咲きめぐるみすぼらしい家で馬を洗っている、という。一日を働き終えた農耕馬が洗われているところだ。蔓性の夕顔がはびこる様子はいかにもみすぼらしい家の佇まいだが、夕顔の白い花々と、洗われている馬の取り合わせが良く、一日が終っていく情感や辺り一面の夕方の光の具合も思われて、俳味のある情景だ。

 

「馬を洗う」というと、現代短歌を読む人ならば

  馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
  塚本邦雄『感幻楽』(1969年)

を思い浮かべるだろう。「馬を洗う」の発想の元に、俳句の季語(晩夏)の「馬洗う(馬冷す、冷し馬など)」がなくはなかったのではないか、と思うのだが、「馬」を比喩的に使い、ほのぼのとした情感からは一転、劇的に印象を変えている。馬を洗うことのひたすらな、感情を研ぎ澄ましていく危うさを思わせる歌になっている。

 

それも魅力ではあるが、橘曙覧の歌に見る「馬を洗う」の俳味。そして、「馬洗う」の俳句、

  冷し馬潮北さすさびしさに 山口誓子

  冷し馬目がほのぼのと人を見る  加藤楸邨

などの味も私は好きである。馬と、働いて汗をかいた人が一緒にどぼんと水につかっていたり、水浴びをしていたりしてもいいなあと思う。そのような情景、現代人の私は見たこともないのだけれど。