うす青き朝の鏡にわが眉の包むにあまるかなしみのかげ

蒔田さくら子『秋の椅子』

 

ある日突然、朝の涼しさを「青い」と感じる時がある。暑い夏の記憶をかすかに残すゆえに、肌寒さがより一層際立つ。そんな朝に鏡をのぞくと、そこには己の眉が映っている。この時、うす青いのは、朝の空気であり、鏡の中の光であり、そして眉である。いうなれば作者は今、うす青き世界の中に一人過ごしている。 それはつまり、悲しみの世界でもあるだろう。

 

その悲しみを、眉が包み隠そうとしている。上げたり、下げたり、寄せたり、ひそめたり、表情の要でもある眉。時には力を込め、怒りや悲しみを隠すこともあるだろう。しかしこの朝の「かなしみ」は、眉で包み隠すことはできなかった。鏡の中の眉が作るほのかな影。それがまるで、「かなしみのかげ」のようだったという。すると一点、顔全体も眉からあふれでた「かなしみ」に覆われているようにも思える。その悲しみは鏡の中を満たし、そして、この朝をも沈めてしまうだろう。そうして視界は、うす青い影に覆い尽くされる。

 

この歌の背景には、「青眉」への思いが流れているかもしれない。青眉とは結婚した女性が眉を剃り落とした跡のことで、日本画家の上村松園は「剃りたての青眉はたとえていえば闇夜の蚊帳にとまった一瞬の螢光のように、青々とした光沢をもっていてまったくふるいつきたいほどである。そのうえ青眉になると、急に打って変って落ちつきのある女性に見えるのである」(「眉の記」)と書いている。だとしたらこの歌の悲しみは、「女として生きること自体のかなしみ」かもしれない。それは、涼しい朝の空気の中でこそ尖る、青い悲しみなのだろうか。

 

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