黒瀬 珂瀾


池の面にさし出でし桜の幹に鳴く遠世のごときひとつかなかな

高嶋健一『中游』

 

かなかなが鳴くのはいつごろだろうか。あの静かな鳴き声は、けたたましい他の蝉とは違って、どこか物悲しい響きがある。古来、ゆく夏を惜しむ心と重ねられてもきた。そこには、旺盛な生命力の季節から、静穏なる季節へと移ろう時間への感慨があるだろう。そして作者はその響きの中に、此岸から彼岸への移ろいを感じ取った。

 

遠世は、「えんせ」と読むのか、それとも「とおよ」か。最初は前者で読んでいたが、最近、後者でもいいかな、という気になった。そのゆったりとした音が、ただ一筋しずかに響くかなかなの声と共鳴するように思うからだ。その遠世、見慣れない言葉だが、普通に考えればあの世とか来世の意味にとれる。しかし、その意味も含むが、もう少し広い世界を指すようにも思える。つまり遠世とは、今のこの時間空間から限りなく遠い、精神の果てを指すのではないか。

 

なぜならこの歌の光景は、何気ない池の風景に見えて、その背後に大いなる時の流れを秘めている。水面から桜の幹が差し出ているのは、水没した桜の幹がその状況を自然なものと受け入れるまでの長い時間を思わせる。過去に何か激しい地形の変化があったのかもしれない。そんな激動を微塵も感じさせず、風景はひたすら静寂にして、ほそぼそとかなかなが響く。

 

  水の上渉(わた)りゆかむとうつしみはあはれ予感のごとく漂ふ

 

心理学の研究者であった高嶋の歌には、この世のあの世のあわいを、研ぎ澄ませた精神の触覚で探し出すような感覚がある。これらの水上は作者にとって、現実の風景や個人の日常をはるかに超越した、神話的な空間なのだろう。

 


追記

一晩経って考え直してみたら、「池の面にさし出でし」というのは、単に桜の幹が岸から池の方にせり出しているという意味かもしれない。いや、普通に考えたらその方が自然だろう。とはいえ、まあ、僕個人はそう思ってしまったので、僕の中ではそういうことにさせておいてください。