黒瀬 珂瀾


ノウミソガズガイノナカデサドウシテセカイハイミトコトバニミチテ

森本平『モラル』

 

初見ですらっと読めた人、いるでしょうか? カタカナが繋がるとこうも読みにくい。それくらい私たち日本語話者は、日本語の表記自体を意味受容の手助けとしている。あえて翻刻?すれば「脳みそが頭蓋の中で作動して世界は意味と言葉に満ちて」か。漢字と平仮名交じりに直せば、確かに意味は分かりやすくなるが、カタカナの時の迫力というものが消え去っているようにも思う。これはどんな歌でもカタカナで書けば迫力が出る、ということではない。やはり意味内容と韻律と表記の三位一体が成立してこその迫力なのだ。

 

「ノウミソ」があるのは「ズガイ」の中だから、上句は当然のことを言っている。しかし、その当然のことを敢えて切りだされると、人類の「ノウミソ」も、当然のことわりの中で存在する、一つの機関に過ぎないということを思い知らされる。何と言ってもそれは機械のように「サドウ」するのだ。その「ノウミソ」が「セカイ」に満ち満ちた「イミ」と「コトバ」を認識する。いや、むしろ、「イミ」と「コトバ」に満ち満ちたものとして「セカイ」を認識する、ととった方が正しいかもしれない。

 

こうして、「ズガイ」の中で「サドウ」する「ノウミソ」が、私たち人間の世界認識を作り上げる。本当はそんな世界、どこにもないかもしれないのに。そんな不安がふと訪れるのはやはり、初見での意味伝達を拒絶するカタカナ書きのためだろう。一目見た一瞬、貴方の「ノウミソ」は、うまく「サドウ」しなかったのではないか? そして実は、こんな《カタカナ書き》の情報は、今現在の世界に満ち満ちている。たとえそれがカタカナで書かれていなくても、世界を覆い尽くす無責任で膨大な情報に、貴方の「ノウミソ」は追いつけるのだろうか。

 

  ヤカマシキセカイノナカデニクカイハワタクシトイウシコウヲカサネ

  ムギノサケタユマヌアワヲハナチツツノドノキ力ンノナイブヲスギテ

 

ともかくゆっくり読んでほしい。「ニクカイ」である「ワタシ」は「シコウ」を「カサネ」ることでようやく「ニクカイ」というレッテルをはがす。しかし、そんな「ワタシ」は「ムギノサケ」を飲むのではなく、「ノド」という「キカンノナイブ」に流しているにすぎない。そんな「ワタシ」は「ワタシ」なのか、それとも「ニクカイ」なのか。貴方の「ノウミソ」は「ゴサドウ」を起こしていないと、イエルノダロウカ?