杉爺(すぎじい)の中のこだまを呼びにきて若きあかげら若き首をふる

佐佐木幸綱『アニマ』

 

機関銃のような高速のリズムで、アカゲラが杉を打つ。これはドラミングと呼ばれる行動で、繁殖期に顕著になる。コミュニケーションのためのもので、餌取りや巣穴を掘っているわけではないらしい。若いアカゲラが必死で首を振るのは、求愛のためだろうか。しかし作者はアカゲラの振る舞いに、さらなる呼びかけを見出した。それは、古木の杉の奥に眠る、こだまの響きを呼び覚まそうしているというのだ。

 

この「こだま」は「谺」であり、すなわち「木霊」だ。山面に反響するほどではなくとも、山林に響きわたるドラミングは「谺」であり、アカゲラの呼びかけに杉の古老が応えた「木霊」なのだ。木霊とは樹木に宿る精霊であり、その声は山彦だ。古来、山の民は木霊を宿す古木を敬い、祀り護ってきた。しかし、現代文明が広まるにつれ、そうした山の民の精神は薄らいでしまった。しかし今も若きアカゲラは杉の老木を慕い、その中に眠る木霊に、季節の変わり目を知らせようとする。……と、ドラミングを耳にしながら山林に立ちつくす作者は感知したのだ。

 

「杉爺(すぎじい)」と「若きあかげら」の対比がやはり面白い。人間の時間感覚を越えた木々の世界を、小さな時間を持つ若い命が飛ぶ。「若き首をふる」動きにはどこかひたむきさがある。樹の時間、鳥の時間……様々な時間感覚が同時に流れ、一つの尺度に定まらない山林の世界。その中の命の移ろいを、現代社会の時間を持つ人間が実感しているのだ。

 

  向日葵の花かき消えし空白に人面生(あ)れて人語揺れそむ

  他ならぬ海ある星に生まれ生き死にけりな水の浮力信じて

  仮の世の魚を抱きて枯野ゆく男時(おどき)の水の貴くもあるか

 

佐佐木は本歌集の後書で、鶴見和子を引きつつ、短歌における「自然はもとよりのこと、他者や物一般にアニマ(命、魂)を認める感覚」であるアニミズムの復権を主張している。だが、単に自然を擬人化して詠うだけでは、「人間にとって望ましい自然の姿」の表出に陥ってしまう。それはアニミズムではなく、自然を支配矯正しようとする近代的価値観の表れでしかない。ここに挙げた歌たちは、そうした価値観から離れ、対象とのまっすぐな感応を思わせる。それは、人間の時間、価値観以外の尺度を、歌にゆったりと取りこんでいるためではないだろうか。

 

 

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