黒瀬 珂瀾


田に降りてまだ静まらぬ鶴(たづ)むらの白きゆらぎの中に踏み入る

岡野弘彦『天の鶴群』

目の前には冬の田が広がっている。今、そこに鶴の群れが降り立った。「まだ静まらぬ」というから、空を飛び渡ってきた動きの治まらぬまま、鶴たちは鳴き交わし、羽ばたき、踊るように跳ねているのだろう。そのさまはまるで、「白きゆらぎ」のようだったという。それほど多くの鶴たちが今、作者の眼前に降り立ってきたのだ。もしかしたらその背景には、白い雪が広がっているのかもしれない。白い鶴の群れの中へと歩み入ってゆく時、まさに「白きゆらぎ」そのものの中へと分け入る心地がした。聖域へと踏み入った己の身が清められていくような、厳粛な感覚である。

  鶴(たづ)むらは夜の狂(くる)ひを舞ひ舞ひて闇の深処(ふかど)の底白みくる

  真白羽を空につらねてしんしんと雪ふらしこよ天(あめ)の鶴群(たづむら)

という歌が、掲出歌とともに並んでいる。厳寒の中、凛として舞い、鳴き交わす鶴の姿には、張り裂けんばかりの振動が満ちている。この〈白〉はまさしく邪を封じ、災いを鎮め、国土を嘉(よみ)する、命の極まりを表す色だろう。「白きゆらぎ」の中に踏み入った時、本当に揺らいでいるのは、作者自身の命だ。その揺らぎは熱き情感のかたまりとなり、心を突き動かし、歌を生む。

この鶴群の一連の背後には、万葉集巻九の「旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群」の一首があるように思う。遣唐使随員の母親が息子の旅を案じた歌だという。鶴群はこの時、国土の命の象徴として〈母性〉を帯びる。そこまで読まずとも、鶴の美しさの中に、麗しき〈女性(にょしょう)〉を見ることは容易だろう。その〈母・女〉の中に「踏み入る」とはどういうことか。そこにはエロティシズムがある。作者にとってこの鶴群を詠うことは、己の命の高まりを詠うことだったのではないだろうか。

  魂はそこすぎゆくかあを蒼と昏れしづむやま天につらなる

  おごそかに歳かはりゆく雪の庭願はくはわれの歌きよくあれ

歌は命のあらわれ、魂の器だ。この世に、それぞれの風土に生きる私たち。その声と魂が歌となり、また、歌が、暮れしずむ天より声と魂を私たちに連れてくる。あまりにも多くのことがあった今年も暮れてゆく。歳が改まったからといって、何かの苦から解き放たれるわけではない。しかしそれでも、たとえ少しでも、「われの歌」、すなわち、私たちの命、そして、この世界が、きよくあることを願わずにはいられない。


これで僕の担当を終わります。一年間、お付き合いありがとうございました。日本国外での執筆ゆえ、資料・調査の不足など、至らぬ点も多かったと思いますが、どうかご海容ください。明日、本当の最終日を担当する澤村さんにも同行の御礼を述べるとともに、来年の担当者二人にバトンを手渡します。みなさまに良き新年のあらんことを。