桐のはな医院のうらにほのみえてやわなるものをおもう ゆうぐれ

                                           下村光男『少年伝』(1976年)

 

 桐の花が医院の裏に「ほのみえて」いる。ほのみえるは「仄見える」、ほのかに、かすかに、ちらっと見えるということである。桐の花は初夏に咲く大ぶりの花であるが、やや薄い紫で遠景から眺めると「ほのみえる」という感覚は分からないわけでもない。そして、桐の花を眺めている作中主体の意識もどこかぼんやりとしているようだ。むしろ、意識がぼんやりしているから桐の花が仄見えているというべきか。このたゆたうような感覚はは「ゆうぐれ」であり「医院」(病院ではなく)の裏にあるものでなければならない。

 そして、主体は「やわなるもの」を不意に思うのである。「やわなるもの」は「柔なるもの」。具体的には、恋とか、ナルシズムとか、若き日のセンチメンタルな感情を想像する。おそらく、政治や思想や行動は「剛なるもの」であろう。そうではなく「やわなるもの」を主体は思うのである。そして、結句一字あけの「ゆうぐれ」。「やわなるもの」を想いつつ主体は夕暮れのなかにそのまま沈んでゆく。ひらがな書きの妙も意識的であり、主体による「軟派宣言」を思わせる一首である。

 

 『少年伝』は著者の第一歌集で、あとがきによると十七歳から二七歳までの歌を収めたものであるという。どちらかかというと、プライベートな「やわなるもの」が多く歌われた歌集で、内向的でありつつどこか等身大でもある。

 

おおこれが植物のごとき性欲か菜の花の海にとびこんでゆく

くちびるのような雲とぶ白昼(ひる)なればおもいきりすすりてみたしその雲

ゆたかなる胸のおとめにむけらるるいくつもの眼のなかのわが眼や

 

 恋の歌、性の歌も多いのだが、そのどれもがみずみずしい。二首目、「くちびるのような雲」が面白い。唇のような形の雲が空を流れてゆく。ふと恋人の唇を想像して、啜ってみたくなったというのである。「白昼」から、「おもいきり」恋人の口を吸ってみたいと思うのである。性欲のことを歌っても、どこか軽やかだ。三首目も、劣情とでもいうべきものを歌ったと言えるだろうが、どこかあっけらんとしており、さわやかさがある。

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