半田良平『幸木』(1948年)
作中主体は丹頂鶴を眺めている。主体の存在に気づいてか、鶴は逃げ去ろうとする。頸をさし伸べて危機感を全身で表しながら……。上の句から順に読んでゆくとそういうことなのだが、結句でそれは絵の中のことであると分かる。鶴が頸をさし伸べるのは絵の中なのである。しかしながら、読者の頭の中には丹頂鶴を目の前にして、息を詰めている作中主体の視点が残っており、臨場感が伝わる歌である。
あまりテクニックを利かせた歌と読まない方がいいのかもしれない。『幸木』は終戦の直前、昭和二〇年の四月に亡くなった半田良平の遺歌集であり、淡々と身辺の日常が詠まれた歌も多い。同時に、戦中をやや体の弱い一歌人として過ごした人間の思考や息づかいが、そっと伝わってくる歌集でもある。
日食のラヂオリレーを聴きて
ラヂオリレーは関西の晴を告げながら照りつつ欠くる日をば讃へつ
ラヂオリレーは浜松に来てとの曇り日の隠ろへる嘆きを訴ふ
ラヂオリレーは女満別にゆき着きてあたりはいたく昃り来しといふ
夜おそく声ひびき来るラヂオより知り得たることのあはれ乏しき
ラヂオにてさきほど聴きしそのままの記事を号外の上に見直す
将校らの死刑は終へしことをのみ伝へて時と処に触れず
前半三首は日食を観測するラジオリレー(というものが当時あったのだろう)の歌。西から日本列島を日食が通過してゆき、ラジオという機器を通してそれを体験する楽しみと興奮が、素直に明るく描かれている。ラジオというメディアを通じて得た情報であるが、心の昂ぶりが生である。
後半三首は二・二六事件に取材したもの。ラジオからの情報を新聞の号外で再度確認するなど、事件に一庶民として遭遇したときの落ち着かない感じが歌に残されてる。「あはれ乏しき」「時と処に触れず」など事件や報道を見つめる目には冷静なところもあり、今風の言葉を使うとメディアリテラシーのようなものも感じられて、面白い。