石田比呂志『無用の歌』(1965)
無骨な歌だ。「抑え難く」「動く」「躓く」と「く」が重ねられているのも、技巧的というよりむしろ歌をぎくしゃくさせているようだし、「椅子に突き当り」の字余りもスマートでない。しかし、その文体が、「抑え難く感情の動く」日の若々しい苛立ちを、ストレートに体現しているようにも見える。
感情が波立っているときは、あっちでもこっちでもやたらと身体が物にぶつかって、余計にいらいらしてしまう。多くの人が経験したことのある場面を、やや自嘲を込めて歌っている。
『無用の歌』は石田比呂志の第一歌集。40もの職を転々とした青春期を、無骨に歌い上げている。
妻とわれと勤めに出でてゆきし後夕日は遊びておらん孤独に
職持たぬこの身しんじつ用なくて昼の沢庵を噛み切りており
魂の切売りするという思いしばしばも湧くいりこ売りつつ
履歴書に書かざりしわが職歴に電気器具販売員保険勧誘員
歌集の前半にはこういう歌が大量に並んでおり、物量作戦、といっては失礼かもしれないが、転じていく人生とぶれることのない人生観をぐいぐいと見せつけられているようで、すごい迫力がある。
風吹けば鳴る電線よ孤立(ひとりだち)の電柱たちを繋ぎ止めいて
一本の抜身の如く雑踏に分け入りしわれ帰り来たらず
孤独なる心賺(すか)している時し一鉄片の如く蠅落つ
歌集後半から。本来、電柱は電線をつなぐものであって、その逆ではない。しかし、石田比呂志がシンパシーを寄せているのは、断然電柱の方である。横へ横へと流れていく電線よりも、すっくと「孤立」する電柱の方に、自らの美意識と近いものを見出しているのだろう。同様の美意識は、「一本の抜身の如く」という直喩や、蝿を見る目にも表れている。