棚木 恒寿


瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

                                                                 正岡子規『墨汁一滴』

 有名な子規の随筆『墨汁一滴』の、中でも最も有名と思われる一首である。一一一年前の今日四月二八日に記されている。添えられている文章は次の通りである。

 

 夕餉したため了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶(えん)にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてあやしくも歌心なん催されける。この道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆をとりて

 

 とあり、次に藤の花の歌を筆頭とする十首の歌が記されたあと

 

 おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。

 

 という風にこの日の記述は終わる。穏やかな春の日の、病の合間の平穏な時間の流れが文章からはうかがえるだろう。「藤を活けたるいとよう水をあげて」あたりは子規の観察の細かさというべきか。藤の花の盛りを愛でるだけではなく「いとよう水をあげて」という、観察でもあり庶民的な花の様子の捉えようが生き生きとしている。病の自分と対照的に生き生きとした藤の花に感動して、、、という読みは深読みかと思うが、藤の花の生命力へ寄り添ってゆくような心はまぎれもなくある。

 また、「おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり」には、どこか自分の境遇や心を客観的に把握しているような穏やかさがあろう。この日の子規には、自分が良く見えていたのではないかと思う。

 

 さて引用歌に戻る。私はこの歌の面白さは藤の花を描くときの、物理的な把握の面白さだったのではないかと思う。長い花房を垂れる藤の花であるが、少しだけ畳に着くには短かった。そこにわずかに心が動いたのではないか。そういう空間把握のおもしろさは、生や死という人生上の重大事とはわずかに離れたところで、読者のこころに響く。春の日の病が小康状態にあった一時の、こころよい空間把握だと思う。この歌の次にある「瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり」なども、「かさねし書の上に」という、やや庶民的な視線からの把握に新しさとすがすがしさがある。

 

藤なみの花の紫絵にかゝばこき紫にかくべかりけり

瓶にさす藤の花ぶさ花垂(た)れて病の牀に春暮れんとす

八入折(やしおおおり)の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

 

 三首目の萎れだした藤の花への処置を歌にしてゆくところ、幾分クールな把握であり面白い。そして結句の「よみがへり咲く」には素直で健康的な憧れがあると思う。