石川 美南


わが乗れる山手線がうつりをり切手博物館の窓それぞれに

栗原寛『窓よりゆめを、ひかりの庭を』(2012)

 

「切手の博物館」はJR目白駅のすぐそばにある。実際にそういう設計になっている訳ではないのだが、「窓それぞれに」と言われてみると、窓の一枚一枚が切手の形のように思えて、ちょっと楽しい。日がな一日同じところをぐるぐる回り続けている山手線も、切れ切れに窓に映し出される一瞬、(それこそ、手紙に貼られて遠くへ行く切手のように)長旅の途中であるかのように見える。「切手博物館」という具体の効いた一首だ。

栗原寛の第2歌集『窓よりゆめを、ひかりの庭を』には、地名を詠み込んだ歌や、電車で移動する歌がよく出てくる。

 

  諏訪町の交差点には枇杷の木のありて日ごとに色が深まる

  なみなみとコップに注ぎたる水をもてこの手に高田馬場沈めゆく

  われ以外は障害物と決めつけてゆくほかはなし 池袋行く

  瞬きをくりかへしをり ジョヴァンニのやうに気づけばひとりの列車

  東西線の夜に車輛をうつりゆくカムパネルラがさうしたやうに

  ものさびしき硝子のうちに月ひとつ星ひとつぶの新宿となる

 

目白も池袋も新宿も、もしかすると日常的に訪れる場所なのかもしれないが、深い思い入れがあるというよりは、通過点として描かれている。旅が日常になっている、あるいは日常が旅のように見えている人なのではないか。銀河鉄道の旅から戻ってくるジョヴァンニだけでなく、旅に出たきりになってしまうカムパネルラの方にも心を寄せているところも興味深い(蛇足ながら、「通過していく」という思いが強いせいか、「ゆく」という動詞/補助動詞が多用されるのは、やや気になるところ)。

地名の歌と同じか、それ以上に目立つのは、自らの(あるいは恋人の)身体を歌った歌だ。

 

  雨粒を弾かなくなる白き傘 シャワーのあとのわが身を抱く

  あたたかき手に触れられてゐるやうなタオルに裸の体ぬぐひつ

 

繰り返し身体に触れ、確かめるのは、足早に過ぎ去っていく日々をかろうじて繋ぎとめるための儀式であるように思われる。