棚木 恒寿


ひばりありがとうほととぎすありがとう手をふりながら年老いてゆく

 

                                                  岩尾淳子『眠らない島』(2012年)

 

 雲雀は何となくものがなしい春の鳥、ホトトギスはやや陰影のある初夏の鳥というイメージがある。しかしながら、この歌ではあまりそういうことを考える必要はないのかもしれない。ひばりさんありがとう、ほととぎすさんありがとうと春から夏へのひかりのなかで、作中主体は誰彼となく声をかけてゆく。賑やかに手を振りながら声をかけるとき、ふと我に返った主体は、こういうことをしながら自分は老いていっているのだと気付くのである。上の句は軽快な口語文体だが、ふと老いを意識するとき、一首には何とも言えぬものがなしさが漂う。体や技術の衰えなどから、実感としてじんわりと老いを意識したのではないだろう。すっと意識の表面を老いという感覚が過ぎていった感じである。人生の盛りを過ぎつつあるときふとよぎる老いの意識、あるいはいつしか自分も老いてゆくのだろうなという先取りの感覚。そのようなものとしての「老い」がここにはあるように思う。口語の軽みが、意外と痛切であろう。

 

目にごみが入ったようなせいよくにつかまれながら葡萄を毟る

 

 この歌では上の句の比喩が目につく表現だろう。「目にごみが入ったよう」なのだから、十代のような素直で純朴な性欲ではない。目のごみは、取れそうで取れずひっかかるものであり、それと同様にどこか自分のこころに引っかかったまま離れないような性欲を感じているのだろう(どことなく中年の性欲という気配である)。そして、自分の内なる性欲を気にしつつ、毟る葡萄。おそらく「毟る」という動詞の選択が良く、葡萄の実を毟る手つきはエロティックでもある。

 

雨の降る川に似ていたひとすじの歯ブラシの柄のふかいみどりは

 

からっぽの牛乳壜の腹太く冬になりゆく週の終わりは

 

大判の鳥類図鑑を見ておりぬ飛べない鳥はうしろのほうに

 

白桃をひかりのように切り分けてゆくいもうとの昨日のすあし

 

やみそうに降っている雪 やせている電気工事のひと来ないまま

 

誰のためにも苦しまないで冬の日がたいらな湾にもうすぐ落ちる

 歯ブラシの柄の深みどり、牛乳壜の腹の太さ、飛べない鳥の図鑑での並びなど、だれもがどこかで見ていそうな光景であるが、それを定型で確実に掬ってきており、なんともいえぬリアリティーを感じる歌である。観察の鋭さが、ものの手触りの確かさにつながってゆく。