棚木 恒寿


カレンダーを家族の予定で埋めし日々終りていまは詳しく知らず

                                                         近藤かすみ『雲ヶ畑まで』(2012年)

 

 その昔、カレンダーが家族の予定で埋められていた日々があった。子供に学校の行事があったり、週末に家族での外出があったり。家族の歴史がまだ若かった時代のことであろう。そのような日々はいつしか過ぎ去ってしまい、家族の何人かは離れ住み、お互いの予定の詳細を知らなくなっている。「詳しくは知らず」という、付かず離れずともいえる独特の距離感(「は」微妙なニュアンスに注目)が印象的である。各々の家族がどのようになったかなど、具体的なものは語られない。歌ではカレンダーが描かれるのみである。昔と同じようにカレンダーが掛けられ、それを同じ角度からみている「われ」。しかし家族はむかしのままの家族ではない。一抹の寂しさと、適度な距離感と。しずかな心のたゆたいがそっと差し出される。

 

 『雲ヶ畑まで』は近藤の第一歌集である。過去の、現在の、未来の家族や周囲の人々との物語が、ふうわりと語られる歌がなんとも印象深い。

 

裏口の男下駄なら夕べから蛍さがしに行つたつきりで

夢のほとりに来てゐるひとは母なるか祖母(おほはは)なるか横座りする

書店にはインクと埃の匂ひあり人のにほひも確かに混じる

逢ひたさはいづれ薄らぐ さうやつて春に幾たび人と別れぬ

死ぬときは枕元まで母が来て卵ごはんをひとくちくれる

夜更けても居間でサッカー観てをりし子は背中から大人になりぬ

兄のごとやさしき人と思ふとき窓より見ゆる卯の花しろし

 

 一首目、裏口の男下駄を履いて出て行ったのは誰だろう。共棲みする家族のような気もするし、過去の息子や父かも知れず、ひょっとすると下駄が勝手に出て行ったのかもしれない。蛍を探しにいったきり帰ってこない下駄と人。明確には描かなかったり、消してあるところから、ふうわりと叙情がふくらんでくるのである。三首目は、梶井基次郎の『檸檬』の舞台となった「丸善」の閉店について描いた歌だが、下の句「人のにほひも確かに混じる」が心に残る。本屋に交錯し、すれ違った人々。お互い濃密な関係があったわけではないが、本をもとめて、昔から現在までこの場所に足を運んだ大勢の人々の面影やたたずまいが頭を巡るのである。それは、時間をふっと超えて眼前に現れる。その時間の越え方、人との距離感が、この作者独特の歌のたたずまいになっている。六首目の息子の背中に流れた時間、七首目の「兄のごと」やさしい夫、一首の描写が家族の長い時間を含んでいるようで、くっきりとその像が立ち上がる。

 

死ぬ順序分からぬままに秋は立ちけふのあさがほ空色が咲く

風ふかぬ夏の夜深みけふとあすに境見えねばすなわち寝ねむ

むらさきに艶めく茄子を掌でおさへ首を落とせりもう日が暮れる

去年詠みし木蓮の歌思ほへば一つ年古るもくれんもわれも

青空のコピー一枚落ちてゐる雨のあがつた帰りの道に

帰り道ちかづけば灯るあかりあり人を照らして人をうたがふ

 

 家族の歌以外の作品も、心に残るものが多い。二首目、今日と明日の区別のつかないような時間、風が止まった夏の底の茫漠とした感覚のなかただ「寝ねむ」という意思だけが印象的である。三首目、「艶めく茄子を掌でおさへ」はエロスを覚えるほど鮮やかなシーンであるが、首を落したあと「もう日が暮れる」と回収してゆくところ、作者らしいとも思う。