棚木 恒寿


見ることなきはらわたなどを思うとき恥多き身が立ちあがりたり

 

 

                                 武川忠一『地層』(1989年)

 

 自分自身の体の内側の構造について、今なら小学生でもその大体のことを知っている。現代ではレントゲンや、CTやMRIなど、体の内部について知る手段も発達しているだろう。しかし当然のことながら、人は自分の内蔵を直接見ることはできない。自分の内蔵を他の人の内蔵と比較して、大小やら色やら働きやらを比べたりすることは不可能だ。そういう意味で、人間にとって,体の内部とは自分自身のものであり個人を規定するものでありながら、直に見たり触れることのかなわない、不思議で厄介なものである。

 

 この一首では,見たことのない自らの「はらわた」を想像している。明示されていないが、「わがはらわた」を思っているのだろう。理科の教科書に載っているような、一般的な内蔵の図ではなく、生まれてから今までの時間が蓄積した自分固有の「はらわた」を想像するのである。「わがはらわた」は人生を歩んで来る中で相応に痛みつつ、過ぎし時間の痕跡を残している。そんな「わがはらわた」を思っていると、ふと自分の今までの恥が自覚される。「恥」は、体を洗って垢を落とすように消しさることのできるものではない。内蔵ずっと蓄積してきたものである。多くの恥を背負ってきた体が、すうっと立ち上がるのである。

 

 深読みすると、戦中派の武川にとっては、「恥」とは戦後を生きて来た日々のことかもしれない。