棚木 恒寿


さしあたり今朝は虚無にも逢はざれば小走りに廊下行けりわたくし

             岡井隆『初期の蝶/「近藤芳美をしのぶ会」(2007年)

 「今朝の虚無」とは、鬱の感覚だろうか。主体はしばしば朝の時間をだるく、鬱に奪われるのだろう。今日はそんな虚無の時間に逢わなかったので、小走りに廊下を行くのである。「小走りに廊下行けりわたくし」はややコミカルな描き方でもあり、そんな日の心踊りをやや戯画的に描いているといえようか。コミカルでありつつも、登場人物はひとりであり、しんとした孤独がある。

朝なさな心の門に杖をひく私(わたし)はわたくしの異教徒として

 これも朝のひとりの時間の歌。毎朝自分の心の中に入るために、心の門を杖を引きながらくぐるのである。自分の心のなかとはいえ、すっと入れるものではない。まるで、異教徒が門をくぐるように、自分の心のなかに朝が来るたび入ってゆくのである。朝を覚醒して詩人としての精神活動を始めようというとき、あるいは昨日の執筆の続きに戻ろうという時の感覚だろうか。「私はわたくしの異教徒として」の前で、読者はながく立ち止まるであろう。

指導などしてはならない花梨(くわりん)の実おのずから太り秋の入口

気力あれどたぬしきことなに一つなし路上にバスを待てばすぐ来る

にぎりめし食ひて少しでも良い方へ行けよふかまる疲労のなかで

 日常の中での心の推移がひっそりと差し出されている。