石田比呂志『流塵集』(2008年)
清水や泉は夏の季語。
梅雨のあとは湧き水の量がふえることもあるが、なにより涼感をよろこぶ気持ちから、夏の季語されるのだろう。
噴水や滝を夏季としているのと通じる気持ちがある。
連作全体を読むと、一首は晩秋か初冬の歌である可能性が高いのだが、一首独立で引くと、やはり夏の山道で出会ったひとときの涼しげな風景が目に浮かぶ。
ふた流れの清水の落ち合うところ、その清冽な流れに主人公はかがんで、てのひらをひたす。
どちらの水もつめたく澄みきっているので、互いの流れを濁すことはない。
落ち合う、とは、流れが斜面をくだってきて合流すること。
そこから派生して、ひととひととが約束をしてひとつ所で出合う意味にもつかう。
山の斜面をくだる清冽な湧き水の印象を詠んだ一首は、どこか人生論的な含蓄もある。
では、清廉潔白であれ、という人生訓かといえば、そんなに肩肘をはった歌でもないように思われる。
つめたく澄んだ湧き水に手をひたし、こんなふうにひととつきあいたいものだ、という主人公のしずかな思いを味わえばいいのだろう。
同じ歌集の別のところにこんな歌もある。
鴨二つ水を距てて浮かびおり疎遠とは間に水を置くこと
疎遠、とは交際が途絶えがちになることで、ふつうはマイナスの意味につかうことが多いが、親密すぎる間柄もときには疎ましい。
間隔をおいて浮かぶ鴨は、必要とあればやすやすとその距離を縮めることができる。きっと、そんな関係が人間同士のつきあいでも望ましいのだ。
とかく人とのつきあいは難しいが、これらの歌には、主人公がであった人たちへの愛着と信頼とが、にじみだしているように思われる。