吉野 裕之


かうするつもりだつたが結局かうなつた 長き一生(ひとよ)を要約すれば

浜田蝶二郎『わたし居なくなれ』(2003年)

 

大煙突のさきが闇空に紛れつつあすが朦朧ともう見えてゐる  『隙間の霊たち』(1963年)

いま何も通らず重たく白光る線路の上を夜が過ぎてゐる  『星のなかの顔』(1974年)

教師として顔さらし来し恥づかしさタオルなどでは拭ひやうもなし  『眠りの天球』(1982年)

 

たとえばこうした作品を読みながら、浜田蝶二郎を思う。こうした抒情は、短歌に関わる者にとってとても大切な感受性が生み出している。見えないもの/こと。聞こえないもの/こと。忘れがちになるもの/こと。浜田は、こうしたもの/ことを繊細に感受していく。

 

身体(しんたい)は一つあればよく岐れてる腕は二本より多くは要(い)らない

自分とは百年足らず持続するある形 つねに〈いま〉でありつつ

わたし死んでゐなくなつたと感じたらそれはわたしがまだゐることだ

 

『わたし居なくなれ』から引いた。浜田の感受性は、見えない、聞こえない、忘れがちになる、究極のもの/ことに向かう。つまり、私である。あるいは、生=死といってもいいかもしれない。

 

かうするつもりだつたが結局かうなつた 長き一生(ひとよ)を要約すれば

 

「かうするつもりだつた」と「結局かうなつた」が、「が」によって結ばれた上句。7・8・5の字余りが、ゆったりと語りかけてくる。

「長い一生」は、むろん簡単に要約できない。私たちにはさまざまな可能性や選択肢があり、しかし分かれ道では、必ずひとつの道を選ばなければならない。自らの意志で選ぶこともあれば、自らの意志とは関係なく選ばされることもある。そんな分かれ道をたくさん通り、「長い一生」はある。

おそらく、「かうするつもりだつた」人は誰もいない。しかし、「かうするつもりだつた」と人はいうのだ。浜田はそれをよく知っている。だから「が」で結ぶ。そして私たちも、それをよく知っている。だから共感する。

7・8・5のゆったりした字余りは、厳しく語りかけるだけでは救えない/救われないことを知っている人のものだと思う。