吉野 裕之


よろこばしき泉水に来ぬわたくしの喉の奥より蟇(ひき)のこゑ ククッ

小黒世茂『雨たたす村落(むら)』(2008年)

 

小黒世茂の『雨たたす村落(むら)』は、50代後半の作品を収めた、著者3冊目の歌集。

 

「照葉樹林のはげしい気息に溶けあい頭がからっぽになったとき、土の下を流れる水の音や巣を離れる小鳥の気配や星のまたたきを聞くことがある。歌がおのずとこぼれ出る瞬間だ。これはもしかして私の身体の奥に棲む、はるかな古代の声が目覚めはじめたのかもしれない。」

 

小黒はあとがきにこう記す。そして、この明解さが一冊を貫いている。

 

人よりも山猿どものおほくすむ十津川郷へ尾のある人と

蝶しやつくり蜘蛛のはぎしり蛭くしやみ虫けら様は野仏のかげ

蕨尾(わらびお)を過ぎれば平谷(ひらだに) ゆふぐれの月一輪を水に挿しつつ

濃く淡く霧の流れる棚田よりひとつ欠伸に笹百合ひらく

犬笛の聞こえる方へ振りかへる照葉樹林はこんなに重し

けふの旅終へたるやうに寝覚めたり森よりふかくかぶるセーター

送信を了へて午睡に落ちるとき青草の目や連翹の指

 

私たちの身体は、すぐれた共鳴体。「いま・ここ」ではない時間や空間と響きあうことができる。小黒は、「熊野の山や川や磐に私はいつも呼ばれる。(略)呼ばれれば行く」(あとがき)と書く。熊野を「いま・ここ」としながら、つまり日常を離れ、非日常を「いま・ここ」としながら世界と交通する。こうした方法によって、小黒は逆に日常の意味を掴もうとしているのだろう。

 

よろこばしき泉水に来ぬわたくしの喉の奥より蟇(ひき)のこゑ ククッ

 

「よろこばしき泉水」。なんだかとてもうれしい気持ちになる。どんな泉水なのだろう。むろん、具体的にはわからない。しかし、小黒が「よろこばしき」と感受した、その心のありようを思う。

たぶん山道を長く歩いてきたのだろう。いろいろなもの/ことに出会いながら、歩いてきたはずだ。いろいろなもの/ことに出会ったこと、そして小黒が出会ったもの/ことのすべてを祝うように、泉水はあった。喉が渇いていたかもしれない。しかしそれよりも、こうして泉水に受け止めてもらえたことがうれしいのだ。「わたくしの喉の奥より蟇(ひき)のこゑ ククッ」。そのうれしさをこう語る。小黒は泉水と交通し、泉水への敬意と感謝の思いが「蟇(ひき)のこゑ」というかたちになる。

それは、小黒の「身体の奥に棲む、はるかな古代の声」であると同時に、「よろこばしき」未来を願う小黒の声でもある。