じりじりとセメントの袋担(にな)ふさま重心の移るさま見えてをり

田谷 鋭『乳鏡』(1957年)

 

遠き国の雪積む貨車が目前(まさき)を過ぎ瞳吸はるるわれと少年

昏れ方の電車より見き橋脚にうちあたり海へ帰りゆく水

薪のこぶにくひ入りし鉈を提げしまま何を呆然とわが佇ちてゐし

 

見る力を思う。全身で見ている、そんな視覚のありよう。田谷鋭の、生きていく姿勢そのものなのだと思う。

「われ」「見き」「わが」。そこには自身がいる。おそらく、自らを確認するために見ているのだ。対象を見ながら、しかし自らを見る。それは厳しい行為。しかしそうしなければならない必然性が、田谷にはあるのだ。

生きていく姿勢。それは、こうした必然性に由来する。それは自らの意志で選んだ方法であり、それが一首を支えている。だから一首が揺らぐことはない。

 

じりじりとセメントの袋担(にな)ふさま重心の移るさま見えてをり

 

2つ置かれた「さま」。なんでもないような2音だが、この2音によって現実が抽象され、日常が詩に変化する。

「じりじりとセメントの袋担(にな)ふさま」。重いセメントの袋を肩に担ごうとしているのだろう。その重さを担ごうとしている肉体のありようを、「じりじりと」が確かに捉えている。「重心の移るさま」。重心がどのように移っていくのか、具体的に描写されてはいない。だから読者は、自らの精神と肉体とをもって、それを経験しようとする。セメントの袋を担がずに、そう、重さを体感せずに、しかし重心の移るさまを確かに経験していくのだ。精神と肉体の親しさが、それを可能にする。

一首は三句のあとで大きく切れている。切れることによって、ことばの連なりが韻文になる。定型詩としての短歌の豊かさを思う。