嵯峨直樹『神の翼』
(短歌研究社、2008)
好きな女性や恋人の顔をちらちらと見る。しかし、そのまなざしは、どうも跳ね返されてしまう。この「反射」されるという感覚は、私にもよくわかる気がしたのだが、散文的に説明しようとするとなかなか難しい。
問題はまず「確信犯」というところにある。この歌の理屈でいえば、主体に見られているということを〈君〉は気づいている。確信犯というからには、気づかないふりをしながらも、見せてやろうという気持で〈君〉はいる。そして、「反射」して「輝く」とは、主体が見つめるからこそ、その顔はいっそうきれいになる、ということらしい。これがもう一つの大問題である。そんなことがあるだろうか。主体が見ていなくても、〈君〉はきれいであるにきまっているではないか?
この歌が言いたいのは、おそらく、そういうことではない。スイッチを押せば電気のつくような、ツーと言うばカーと言うような、(現実不可能にも思える)ふたりの運命的な交感についてであろう。歌集中の似た傾向の歌に、次の一首がある。
最良の角度に顔を傾けておんなは今日の化粧を終える
自分の顔がいちばんきれいに見える角度を鏡に映しながら化粧をするという女性。「おんな」と一般化しながらこう詠まれるとき、ここには女性はきれいにりたいがために化粧をするという男の側の無邪気な思いこみが見てとれる。さらに、歌集の中からこの二首を取り出し並べてしまえば、男は女性に視覚的な(容貌の)魅力を求め、女性の側も手を尽くしてそれに応じようとしている、そういう男にとってのご都合主義がはっきりと出現することになる。おそらく作者は、そこまで折り込んだ上で、男というものを戯画化しようとこれらの歌を詠んだ。と、いうのも、このご都合主義の背面にある悲哀も、この歌集にはくりかえしうたわれているから。
露雨は世界にやさしい膜をはる 君のすがたは僕と似ている
われの内部の魚眼レンズにかろうじて映る人かげ君かと思う
「川端で死んだ魚の目を見たのそれでも可愛く笑えって言う?」
『神の翼』という歌集を読み解くとき、〈見る〉とか、〈目〉というモチーフは非常に重要である。一首目は歌集の巻頭歌で、実は性愛をうたう一連の先頭でもあるのだが、「やさしい膜」に包まれはっきりと〈見る〉ことのできないふたりは、まるで母胎の中の、いまだ性の分化しない双子の胎児のようだ。二首目において、男に分化した主体は視界をゆがませて広範囲を見ようとするいびつな器官を体にそなえるほどにグロテスクな存在になり果てる。そして目そのものが主体化するような生き方に対する〈君〉の哀憐のにじむのが三首目だろうか。
〈見る〉や〈目〉のモチーフは、胎児が男に分化するように歌集のページが進むにつれ、加速度的に増えていくようだ。そして歌集の最後の一連が「ライカ」と題されたのはまさに象徴的だ。
暗室に吊るしたままのフィルムには写真部時代の君のトルソー
愛されるために短くした髪を揺らして君はバジルをきざむ
触れてみるライカ冷たく手のひらのまんなかあたりに甘さがきざす
しかし意外なのは写真部員だったのが〈君〉の側であるということである。男はいまだに「愛されるために短くした髪」などと見当違いを言いながら、彼女の手に入れたらしいライカにおそるおそる手をのばす。触っただけで手が甘くなるなどとまたもうそぶいて、ほんとうにおそるおそる、彼女がかつて手にしていた〈見る〉にさわるのである。
