来ないでよ母さんだけが若くない お前に言われる日がきっと来る

川本千栄『青い猫』(砂子屋書房:2005年)


(☜4月5日(水)「人から見た自分 (5)」より続く)

 

◆ 人から見た自分 (6)

 

例えば多くの家族が集まる会や学校の授業参観などで、子どもが私の年齢を気にして「来ないでよ」と言う日が来るはずだ――
 

自分の年齢を見つめる目にも、素直さゆえの子どもの残酷性を想像することにも、甘えの要素がまったくない歌だ。教師として働いていることが歌集から分かるが、それだけに、親が学校に来るようなときに生徒たちがどんなことを口にするのか、よく知っているのかもしれない。
 

実は、この歌が詠まれている段階ではまだ子どもはお腹の中にいる。その点がとても面白い。子の顔も声も性格も分からないのに、これから先の人生がどうなるかは様々な可能性があるのに、その枝分かれしてゆく人生すべてのある一点で「来ないでよ母さんだけが若くない」と言われることが運命づけられているのだ。
 

「母さんだけが若くない」なら、〈父さん〉側はどうなのか、と言うとこちらは若いようだ。こんな歌があった。
 

初めての担任をした生徒よりあなたは若い わがままな耳  「冷えた頬」

 

妊娠という肉体面も、子との年齢差への思いという精神面も夫と共有することは難しいのかもしれない。そう考えると「母さんだけ」の「だけ」という限定する言葉が、ずんと重く感じられる。
 

「若さ」について詠んだものには、こちらの歌もあった。
 

先生に何がわかるの 私には昔若かった証拠など無い  「震える手」

 

おそらくは、生徒に何らかの注意をした場面だろう。例えば「先生も若い頃にはそうだったから、分かるけれど――」などと、生徒の気持ちに寄り添おうとしたところ「先生に何がわかるの」と強い拒絶を受ける。そのとき、誰にでも過去があるという当然のことさえ、言葉ででっちあげられるような証拠のないものに感じられる。生徒の眼前には、ただ年上の今の自分がいるだけである。
 

さて、私が掲出歌と出会ったのはもう十年以上前である(証拠はないが)。その甘えのない乾いた認識に魅力を感じていたが、最近は少しばかり感じるところが変わってきた。
 

出産の日を無事に迎えられるかなんて誰にも分からない。そんな状況で、遠い日を「きっと来る」と確信的に言うのだとしたら、そこには子を生み、育てていくことへの強い意思を読み取ってもいいはずだ。
 

例えそれが子どもから残酷な言葉を受けるひどい日であったとしても、その日を迎えることを想像するときには、人はあたたかなベールに包まれているように見えるのではないだろうか。
 
 

(☞次回、4月10日(月)「人から見た自分 (7)」へと続く)