違う世にあらば覇王となるはずの彼と僕とが観覧車にゐる

黒瀬珂瀾『黒耀宮』(ながらみ書房:2002年)


(☜6月26(月)「生きると死ぬ (10)」より続く)

 

◆ 生きると死ぬ (11)

 

もしも時代が異なれば覇王にさえなったであろう、そんな「彼」と一緒に、今この時代のある日の観覧車に載っている――
 

畏敬の念さえ感じさせる相手への強い想いは、あくまでも私個人のものである。他者から見れば、平和な時代を象徴するかのような観覧車に乗ったふたりの乗客にすぎない。
 

天高くゆっくりと上昇していく観覧車のなかで、世界が広く見渡せる。その感覚が「覇王」として世を統べる「彼」の姿を想像させるのだろう。当然ながら観覧車のケージからは出られず、世界をただ眺めることしかできない。
 

もし、人が生まれ変わることがあるのであれば、繰り返される人生の中で、世を統べる「彼」とその覇道を支える私もいるのかもしれない。観覧車は、何度も人生が巡ることの象徴でもあるようであり、それと同時に、何度巡っても同じ軌跡を描くだけで「彼」が覇王となることはないという宿命を示しているように思える。
 

「彼」はこの時代に生まれたことをどのように感じているのだろうか。そして、私がもし違う世にあったならばどうなっていたと思うのだろうか――
 

頂点に達した観覧車が、いまゆっくりと下がっていく。
 
 

(☞次回、6月30(金)「生きると死ぬ (12)」へと続く)