林和清『木に縁りて魚を求めよ』(邑書林:1997年)
(☜6月23(金)「生きると死ぬ (9)」より続く)
◆ 生きると死ぬ (10)
訪れた銀行のなかは冷房の鋭いにおいに満ちている。そのとき、自分という存在が、客観的に見れば人々の脳に残る記憶を断片的につなぎ合わせただけの存在に感じられる――
上の句の、銀行という人間味の感じられない場面の描写に惹きつけられる。おそらくは外は暑いのだろう。その暑さを冷房という機械装置で強烈に消し去る、銀行という空間の非現実性が際立っている。
その「お金を蓄える場所」としての銀行が、脳が蓄える「記憶」についての思考を呼び覚ますのだろう。付け加えるならば、銀行の「銀」と、脳の「灰白質」も色のイメージを通底させているようだ。
自分自身は二十四時間生きており、その記憶も確かにある。しかし、自分に対する世界を中心に見ると、そうではない。他人の記憶に存在していなければ、私自身は存在していないことと同じなのだ。そんな、自分の存在がひどく希薄に感じられるひやりとした認識は、銀行の冷房以上に冷たいもののようだ。
歌集『木に縁りて魚を求めよ』には、前世についての歌もある。
重力のあやふやなる夢のさめぎはに鯉魚あらはれてわが腹を打つ前の世は濃みどりの藻のみなぞこに眠りゐしわれ さるにても鯉魚
鯉魚であった記憶を引き継ぐ私は、他人の記憶の中に人として生きる。いま生きているという疑いのないはずのことが、ひどく不安定で危ういものに思えてくる。
(☞次回、6月28(水)「生きると死ぬ (11)」へと続く)