吉野 裕之


夏草のくさむらふかく住む母のポストにま白な封書きている

山形裕子歌集『かばれっと』(1992年)

 

「歌は自分自身の感覚をとおして掴みとるべきであると信じてきた作歌態度に変わるべくもありませんが、最近は、頭でっかちに感覚的であることを空しく思うようになっています。この、知的な現代社会の渦中に生きて、感覚を頼りに世界を掴むことの困難も痛感しています。その結果、目が邪魔なのだと思うようになりました。見えるこの目をつむれば、闇の中でならばと思いはじめています。」(*「掴」は旧字体)

 

山形裕子は、歌集『かばれっと』のあとがきにこう記す。確かに、自身の感覚をとおして掴みとっていることを実感する作品たちである。

 

電線に停まりつづける山鳩へ山鳩きたりつと並び添う

押し咲ける花のみじろぎわれを見よこのわれを見よわれのみを見よ

ふうわりと去年の毛布ひろぐれば風邪の神かささめくきこゆ

犬といて犬の言葉をならわむにえい、くちびるのやわらかすぎる

かっくん、かっくん遠踏切を横断の車つづけり雲厚き午後

塀の猫ふた声よわく呼びかけ来(く)ふるさとされどきみを知らぬよ

左右の掌(て)を自分自身の双の手を力いっぱい引き合う ウオーッ

 

一冊にはユニークな作品が並ぶ。「停まりつづける山鳩」という山鳩への視線。「風邪の神かささめくきこゆ」という風邪(「ふうじゃ」と読むのだろう)の声を聞く耳。「えい、くちびるのやわらかすぎる」や「ウオーッ」は指摘するまでもないだろう。楽しい一冊である。しかし、山形は読者を楽しませようとしているわけではない。「歌は自分自身の感覚をとおして掴みとるべき」という態度を貫いているだけだ。その明確な姿勢が、一首をまぎれもなく山形のものにしているのだ。

 

夏草のくさむらふかく住む母のポストにま白な封書きている

 

離れて暮している母の家を訪ねたのだろう。「夏草のくさむらふかく住む」。「くさむらふかく」のひらがなの7音がやさしい。庭の手入れが十分でなく、雑草が生い茂っているのだ。しかし、その雑草に包まれるように、守られるように母の家がある。美しい夏の時間がそこにはある。

「ま白な封書きている」。「ま白な封書」はどんな手紙なのだろう。もしかしたら何も書かれていない、そんな手紙かもしれない。遠い昔の時間から届いた手紙。

 

吸い呑みの水さしだせば礼を言いて一口飲めりきみは今日死ぬ

 

一連「臨終-山崎方代さん」5首のなかの一首である。「きみは今日死ぬ」。誰も詠めぬ一首だと思う。

「目が邪魔なのだ」。目とは、身体と切り離された理のことだろう。目をつむれば、見えないもの/ことが見える。山形は、確かに見ている。