吉野 裕之


地球は洋梨の形であると書かれをり うふふふふふと読みつつ笑ふ

王 紅花『夏の終りの』(2008年)

 

今朝捨てし鍋の氷がそのままにある 寒き日の柿の木の下

公園に二人と一匹でやつて来て欅もみぢの落葉を踏めり

飛んで来てよつこらしよと着水し白鳥となる その物体は

 

ユーモアを交えながら、王紅花は日常のなんでもないような風景を切り取っていく。なんでもないような風景。しかしそれは、日常とはけっして平凡なもの/ことではないことを教えてくれる。

 

わたくしは悲しむだらう眠りゐるわたくしを誰かが揺り起こすなら

扉(と)を叩く音に目が覚む 外に来てゐるのは啄木鳥かセールスマンか

ポリ袋が路地を行つたり来たりする昼下がり われは眠くてならぬ

寝床にて聴きつつ楽し落葉松の林をとほる春の霙は

電柱にバイアグラの宣伝びら貼られをり はじめて降りしこの町は雨

 

想像力が豊か。そんな言い方も可能だろう。「外に来てゐるのは啄木鳥かセールスマンか」「ポリ袋が路地を行つたり来たりする昼下がり」。

日常は、空間と時間がある正しさをもって構成されている。しかし、私たちは日常に隙間があることを知っている。たとえば路地。路地は曲がりくねったりしていて、見通しがききにくい。見通しがききにくいと不安になるが、ふっと予期せぬ風景が目の前に現れ、うれしい驚きを経験することがある。あるいは、懐かしさに包まれながら、なんだか穏やかな気持ちになったりもする。路地は、空間と時間が必ずしも正しくあるわけではないのだ。だから見通しがきかないのだし、ときに未来の時間や過去の時間に出会ってしまう。

私たちの日常には、こんな隙間がたくさんある。彼女はそれを見ているのだ。そして、隙間も日常。日常とは、そんな不思議なもの/こと。彼女は、日常を楽しんでいる。

 

地球は洋梨の形であると書かれをり うふふふふふと読みつつ笑ふ

 

素敵な一首だ。おそらく、仲間を見つけた喜びで笑っているのだろう。「地球は洋梨の形である」。日常の隙間に、洋梨の形を見てしまった人がいるのだ。「うふふふふふ」。私たちも、うれしくなる。