詩とはなに 硬く尖れる乳首を舌にもてあそぶときの陶酔

米口實『ソシュールの春』(1998年)

 

米口實は、1921年の12月9日に生まれ、今年2013年の1月15日に91歳で死去した。

詩歌そのものを素材にした歌にいいものはない、とよくいわれるが、ここまでぬけぬけと詠われればいっそ痛快だ。<詩とはなに /硬く尖れる/乳首を/舌にもてあそぶ/ときの陶酔>と5・7・5・8・7音に切って、一首三十二音。「乳首」は「ちちくび」と読むだろう。歌意は、明快だ。詩とは、ヘテロセクシュアルの男性である<わたし>にとって、女性の硬く尖った乳首を舌にもてあそぶときの陶酔のようなものだという。ヘテロセクシュアルの女性としては、ただちに返歌をおくりたくなる。

 

詩とはなに 硬く尖れる乳首を舌になぞらするときの陶酔

 

二句以下、何を陶酔とするかは、異性愛、同性愛、両性愛など、<わたし>のセクシュアリティによって、さまざまなことばが考えられるだろう。

 

作者が「陶酔」している詩歌ほど読者に恐ろしいものはないが、わが身を作り手の側において考えれば、一生に一度くらいはそういう歌を書くのも悪くないかもしれない。というより、楽しいのではないか。米口作品の断言は、こちらにそんな気を起こさせる勢いがある。読者のことを忘れて浸る陶酔。もっとも、「詩とはなに」というフレーズは、「詩を書くことはなに」とも、「詩を読むことはなに」とも、その両方だとも受け取れる。この歌を何度も読むうち、そう気づいたが、初めて読んだときは「詩を書くことはなに」という意味に受取っていた。米口が作歌姿勢をのべた歌だと思った。この人の意図はどこにあっただろうか。いずれにせよ、詩を性愛の陶酔だとするのは、ナルシシズムの一つの形である。そして、そのナルシシズムのありようを、遠慮会釈なくことばに定着させてゆく作者の執の深さは、余人の及ぶところではない。

 

米口の作品世界においては、「乳首」「乳房」「ちちふさ」などが、<わたし>の永遠の憧憬、聖なるものの象徴として繰り返しあらわれる。男性作者による「乳房賛美の歌」の系譜につながる作品群だ。最晩年まで「乳房」を賛美しつづけた男性歌人として、米口は特筆したい存在である。

 

をみなごの清き乳房に手をおきてふかき眠りにおちゆくわれは 『落花抄』(2002年)

掌に重き乳房にふれてひたすらに溺れゆくとき死は近からむ  『流亡の神』(2007年)

天降こよアテナイの神 口腔にあふるる舌を おもき乳房を  『惜命』(2013年)

*「天降」に「あもり」のルビ

 

三首目は、死に最も近い時期の作だ。この歌が収録された『惜命』については、本欄の隣にある藤原龍一郎執筆「月のコラム」の二月の回が詳しい。ともあれ、若き日を回想する一連に置かれたこの歌の中で、「おもき乳房」は、ほとんど祈りの対象としてあらわれるのである。

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