吉野 裕之


午後四時の地下鉄に誰もまどろみて都市の腸(はらわた)しづかに傷(いた)む

栗木京子歌集『水仙の章』(2013年)

 

新しきものは声上げ数ふべし今朝ひらきたるシクラメンの紅

夕空はふと液体に変はるときありて梢に柿の実ひかる

白き蕪ましろきままに煮てをりぬ秋の夕日に首照らされて

 

栗木京子の歌集『水仙の章』は、たとえばこうした作品からはじまる。日常にていねいに向き合う健やかな生活者。そんな〈私〉の像が浮かんでくる。

 

さびしさがこころを食べに来る夜は尻尾を生やし揺らしてみせる

公園のベンチに座せるわが影を犬が踏みをればしばし動けず

午後四時の公園明るしベンチより動かぬ母と動かぬスズメ

ひとつづつ姉のことばを繰り返すをさな児のをり初夏の総武線

暴風にて休校となりし真昼間をヤンマのごとく子ら走りゆく

娘あらば秋のソファに翅のごとストッキングなど落ちゐむものを

さあお手を、と言はれしならず地下鉄にて膝より落ちし本渡さるる

 

しかし、読み進めていくと、違和感のようなものが生じてくる。〈私〉はもうひとつの日常を持っているのではないか。記憶のなかの、あるいはあこがれの、というのは安易な言い方ではあるが、こうしたものとけっして遠くはない何かを持ちながら、そことの往復を通して日常が描かれているのではないか、そんな気がするのである。

 

午後四時の地下鉄に誰もまどろみて都市の腸(はらわた)しづかに傷(いた)む

 

一日の疲れもすこし感じられるが、かといってまだ一日は終わってはいない。午後四時とは、一日のなかでなんとも微妙な、あいまいな時間だ。そんな時間には、ふっと何かが見えてくる。

腸は地下鉄の比喩であり、同時に私たちの腸=身体であろう。都市は、人や物や情報が行き交う空間。私たちの生きる空間。栗木は、都市=私たちの痛みを感受している。都市=私たちはいつも痛みを抱えている。しかし誰も、気づかない振りをして過ごしている。

記憶のなかの、あるいはあこがれの。それは祈りなのだと思う。

 

落ちてゐる紅き椿を拾ひたり二つ三つもう地震来ぬやう

 

また地震は来る。理はそうなっている。しかし、祈る。それは理を退けるためではない。理を受け入れるため。そして、新しい理を組み立てるため。理は、単に社会や自然の現象やその原因などについての体系ではない。人びとの知恵をも含めた、私たちの生に関わるものごとの体系。「もう地震来ぬやう」。祈りは、理を更新する。

 

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