高田流子『猫町』(2011年)
白猫と思へば白き袋にて袋と見れば白き猫坐る
日暮里の坂を下りてゆくひとの黒き日傘はホテルに消える
おとろへぬ夏の日差しに濃き影をひきつつあゆむ九月の寺へ
廃屋の「曙ハウス」通るたびわれはのぞきて家のこゑ聞く
空き地に生える草見ることの楽しみは時をとどめて遊ぶたのしさ
高田流子は、東京の谷根千界隈に生活している。このあたりは、多くの寺社が集う江戸400年来の寺町で、戦火や震災の被害を免れた家やまち並みが比較的多く残っている。あとがきには、「路地も多く坂道も多く散歩コースには事欠かない。/もちろん野良猫もたくさんいる。人間に可愛がられて幸せそうな猫を見る時わが情緒はこの上もなく安定する」とある。
谷根千界隈は、「まちで生きている」、あるいは「まちと生きている」といった言い方がしっくりとくる地域だ。高田は、さらに「まちを生きている」といった言い方ができるような、そんな自然体で清々しい関係をまちと結んでいるように思う。だから、自然体で清々しい作品を見せてくれるのだ。
街上に転がる茄子は計三個 烏きたりて一個持ち去る
クレーンより下がれる鉄のかたまりはあふむく吾の頭の上にくる
真向ひのビル屋上に立てるひと大きく背伸びす飛ぶことはなし
もうすこしいうと、変な言い方だが、こだわりのなさが一首の魅力を形づくっている。こだわりのなさ。それは関心の持ち方のこと。関心の焦点が動きながら、しかし、それらの集合体として一つの焦点となっているということではないだろうか。対象との距離という言い方があるが、いわば関心との距離、その取り方がうまいのだ。だから、その焦点を動かすことができるのだし、それらの集合体を一つの焦点とすることもできるのだろう。自然体で清々しい関係とは、こうした関心のありようのことかもしれない。
塀の上を過ぎゆく猫に見られつつストッキングに片足とほす
ストッキングを穿くのは、女性にとってごく普通の行為だろう。これから外出するのだろうか。「片足とほす」が、リアルだ。谷根千界隈は猫が多い。塀の上を猫がゆくのもごく普通のことだろう。「過ぎゆく」が、リアルだ。
リアルというのは、生々しいといった意味ではない。ごく普通のことがごく普通に行われている、起こっている、ということ。しかし、けっして「説明」ではなく、「記述」であるということ。
まちを生きている。それは、まちを記述していくこと。高田の作品の強さは、ここにあるのだと思う。