真夜中に義兄の背中で満たされたバスタブのその硬さをおもう

山崎聡子『手のひらの花火』(2013年)

 

挑発する歌だ。社会的政治的な挑発ではなく、性愛的倫理的なそれ。作者はこの歌を含む一連で2010年に第53回短歌研究新人賞を受賞しており、そのときのタイトル「死と放埓なきみの目と」も挑発的なら、中身の歌も挑発的だった。すなわち、やる気じゅうぶん、野心満々。新人の態度として、これは「買い」だろう。通俗性を厭わずストレートにドラマ性を打ち出す作歌姿勢も、いまどきの短歌界にあって貴重である。

 

〈真夜中に/義兄の背中で/満たされた/バスタブのその/硬さをおもう〉と5・8・5・7・7音に切って、一首三十二音。深夜、バスタブに湯をみたし、そこにからだを横たえる義兄。肉体の重みによって、湯船の内壁に押しつけられる義兄の背中。「満たされた」が効いている。広くて少し骨ばっている、それでいて、薄く脂の浮いている背中だろう。「その硬さ」とは、バスタブの硬さであり、若い男のからだの硬さだ。「硬さ」ということばが、男性性器をたぐりよせる。その硬さを思う〈わたし〉。ことばの暗示力を、知っている作者だ。

 

なぜ「兄」ではなく「義兄」なのか。この歌を「短歌研究」誌上で読んだとき、私は思った。歌としては、「兄」の方がいい。義兄と〈わたし〉は、所詮血のつながらない他人同士だ。こんな関係、全然どきどきしない。一連中の〈義兄とみる「イージーライダー」ちらちらと眠った姉の頬を照らせば〉も、「義兄」を「兄」に、「姉」を「義姉」にした方が訴求力をもつ。「死と放埓」と大きく出るからには、そのくらいやってほしいといいたくなる。

 

真夜中に義兄の背中で満たされたバスタブのその硬さをおもう  (原作)

真夜中に兄の背中で満たされたバスタブのその硬さをおもう   (改作)

義兄とみる「イージーライダー」ちらちらと眠った姉の頬を照らせば  (原作)

兄とみる「イージーライダー」ちらちらと眠った義姉の頬を照らせば  (改作)

 

どうだろうか。あるいは、作者は実人生に添う設定として「姉、義兄」を出したのかもしれない。たとえば、『未青年』「兄妹」の章で〈いらいらとふる雪かぶり白髪となれば久遠に子を生むなかれ〉と、虚の世界を構築した春日井建には、実人生上の妹がいた。だが春日井は一方、別の章で中国育ちの〈わたし〉を登場させ、〈赤錆びし煉瓦の街に生れたるみどり児われにも吹きたる熱風〉と詠んでいる。そして後日、「いかさまの、ぺてんの履歴書を書いたわけである」(『春日井建歌集』国文社)と記す。

 

『手のひらの花火』には、一篇の短編小説にふれたような読後感を与える章がならぶ。物語の構築に資質のある作者だ。実験的な作品として、第二次大戦中に生きる少女〈わたし〉を主人公とする章もある。一首ごとの作りでは触覚、嗅覚、聴覚などの感覚表現にすぐれ、連作の構成では物語性を志向し、少々のけれんみは辞さぬ心意気でゆく。いい添えれば、少女を描いた清水智裕の表紙絵が、作品世界と合っている。

虚と実のバランスをこれからどう取っていくのか、楽しみな新人が登場した。

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