吉野 裕之


坂の上に桜揺れおりうっすらと眠りが坂よりおりてくるなり

松平盟子『愛の方舟』(2011年)

 

私たちは、身体をもって日常を過ごしている。身体は、精神と肉体から形づくられたもの/こと。

 

パック入りの卵の頭やわらかき尖りをもちてこの世に並ぶ

下総の地の凹凸をまんべんなく潰して夏至のふかき黄昏

縦よりも横にひろがる勢いを視野の限りの沖と呼ぶべし

 

卵の頭がもつやわらかな尖り。地の凹凸をまんべんなく潰す黄昏。縦よりも横にひろがる沖というもの。日常の隙間に時折顔を見せる非日常。私たちの日常は、非日常を含みながら豊かにある。それは、発見の喜びでもある。発見は、世界と身体との共鳴。私たちは、身体をもって世界と共鳴する。

 

飛行機が滑走路につくその足のように摩擦す 頭痛はじまる

いつまでも背にある夕日五十代は峰打ち受けし鈍痛をもつ

 

「いま・ここ」にある私の身体。長い時間を過ごしてきた年代としての身体。身体は痛みもつ。痛みは、身体の感度を保証する。人は、痛みがあるから、世界を感受することができるのだ。

 

坂の上に桜揺れおりうっすらと眠りが坂よりおりてくるなり

 

美しい光景だ。「坂の上に桜揺れおり」。坂の上に揺れる桜を見上げる。見上げるという行為は、私たちを謙虚にする。謙虚とは、他者を受け止める姿勢。揺れる桜。それは、色や質感として届く。松平盟子は、それを「眠り」という。「うっすらと眠りが坂よりおりてくるなり」。

身体は、世界と共鳴しながら、ときに世界そのものになる。それは、発見の向こうにある大きな喜び。「うっすらと」の一語が、それを実現している。