踏み板が二つに割れて、君は聴いたか永山則夫の地に落つる音

飯沼鮎子『サンセットレッスン』(1998年)

 

プロテスト・ソングである。それも極めつけストレートの。
歌は「君は聴いたか」と題する一連に置かれ、一連の冒頭にはつぎの詞書が置かれる。

「一九九七年八月一日、永山則夫を含む四名の死刑囚が東京拘置所で処刑された。」

 

十九歳のときに四人の人間を射殺して死刑囚となった永山則夫(1949年―1997年)は、いくつかの点で知られる。一つ、少年の犯罪に対して最高裁判所が示した基準が「永山基準」として、その後死刑判決の判断基準となったこと。一つ、獄中から発表した小説が文学的評価を得たこと。一つ、日本文藝家協会への入会を拒否され、それに抗議した中上健次、筒井康隆、柄谷行人らが脱会したこと。最近では、堀川恵子著『永山則夫 封印された鑑定記録』(2013年 岩波書店)が、話題になっている。

 

〈踏み板が/二つに割れて、/君は聴いたか/永山則夫の/地に落つる音〉と5・7・7・8・7音に切って、一首三十四音。「踏み板」は、刑場の執行室にある板だ。死刑囚はこの板の上で首にロープをかけられ、踏み板が開くと下の部屋に落下する。執行室に隣接するボタン室で、三人の刑務官が同時に押すボタンの内どれか一つが、踏み板を開かせる。2010年、法務省は当時の法務大臣千葉景子の指示により、報道機関に刑場を公開したので、写真や映像を見た人も多いだろう。同年、死刑囚を主人公にしたテレビドラマ「モリのアサガオ」も放映されている。

 

踏み板が開いて永山則夫が「地に落」ちる音を、君はきいたか、と歌は問う。日本の死刑制度に対する抗議だ。国家が人の命を奪っていいのか。正面切った意見表明であり、その意見は、死刑制度肯定者が多数を占める日本においては少数派に属する。こういう歌については、ことばの斡旋をめぐる技術批評よりも、語られる内容について考えるべきなのだろう。言い方を変えれば、訴えの内容について考えてほしい、と歌の方から要請してくるのだ。

 

いや、短歌は意見表明の道具ではないので、内容に立ち入った読みはできない、という読み手もいるだろう。内容に立ち入ったら、短歌の議論ではなく、社会問題の議論になってしまうと。歌を読むのは、死刑制度の勉強ではないと。そういう意味では、読者を選ぶ歌といえるかもしれない。

 

読み手にさまざまなタイプの人がいるように、書き手にもさまざまなタイプの人がいる。いま自分たちが生きている世界に起きている諸事に、抗議の声をあげないで、何のための歌か、歌を書く意味があるだろうか。そう考える作者たちだ。

短歌で扱う内容に決まりはない。政治的なことに踏み込んだ歌も書かれていい、というより、さまざまな種類の歌がなければ、短歌の世界は退屈になるだろう。歌人すべてが佐藤佐太郎にはなれないし、またなる必要もない。私にとって、飯沼鮎子のこの一首は、初めて読んだときから忘れられない歌だ。

 

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