一ノ関忠人『群鳥』(1995年)
毛(マオ)と呼ぶ男、長身のゆらぎ立ち晩夏の河の夕暮るるなり
しづかなる夕べの渚ことごころありてや妻の表情動く
多武峰もみぢしづかに燃ゆるいろたまゆらあそべ父のいのち火
パナマ帽かぶれる父が歩みゆく赤とんぼ群れて飛ぶ草深野
一番星見つけたる子も死のはうへゆるやかながら歩みちかづく
清々しく、しかしすこし古風な、そんな表情をして、一ノ関忠人の作品はある。それは構えのありよう。「パナマ帽かぶれる父が歩みゆく赤とんぼ群れて飛ぶ草深野」。たとえば父への思いにかたちを与えようとしたとき、こうした構えになるのだろう。古風な、というのは、古臭いという意味ではない。端正な、と言い換えてもいい、そんなありよう。
みどりごは鳥の形態(かたち)に腕ひろげ飛ぶと見えしがねむりゆくなり
ああ、そうだ。みどりごはこんなにすばらしいようすをみせてくれるのだ。「鳥の形態(かたち)に腕ひろげ」。まだまだ小さなからだだけれど、腕をひろげると、まるで鳥のように、そう、力の漲った生き物として、美しいかたちを見せてくれる。かたちに「形態」を充てたところに、一ノ関の視線がある。単にみどりごのひとときの外見ではなく、生命としてみどりごを捉えているのだ。生命。それは、まさしく生きる命であり、力をもった組織である。
「飛ぶと見えしがねむりゆくなり」。みどりごは、むろん鳥ではない。だから、けっして飛ぶことはない。この当たり前のことに納得し、そのねむりゆくようすを記述することが、みどりごへの愛情だろう。
初句から結句へ一本で流れる韻律が、みどりごの健やかさでもある。