吉野 裕之


妻は妻のかなしみをもて家中に花かざりゆく雨の日曜日

桑原正紀『時のほとり』(2002年)

 

秋、そらにぷあぷああそぶ雲見つつ時のほとりに腰かけてゐき

 

『時のほとり』という、なにげない、しかしとても魅力的なタイトルの一冊は、桑原正紀の4冊目の歌集である。

 

休日をふたりそろつて買ひ出しのディンクス夫婦二十二年目

家ごもり繭ごもりする少年をたづねゆきたり日のぬくき午後

ほろ酔ひの身を自転車に運びつつガンバガンバと坂こぎのぼる

 

結婚して20数年を経たディンクス夫婦。日頃は教員として働く中年の男性。お酒はけっして嫌いでない。平凡といえば平凡かもしれない。しかしこの平凡は、彼自身がそう規定しているのだ。こう規定することによって、逆に自在になることができる。桑原は、身近なもの/ことをていねいに、大切に描いていく。

 

桜もみぢのしたゆく妻の自転車が秋の穏しき木洩れ日かへす

もりもりと自転車こぎてゆく妻よ五十に近きその脚ぢから

これ出せと言はんばかりに生ゴミの袋が朝の玄関ふさぐ

妻のゐぬ夜の厨にわれを呼ぶ電子レンジへ返事して立つ

秋の星を庭に仰ぎて入りたればやさしい顔に妻が魚さく

寄り添ひて歳かさねつつあはあはとなりてゆくらし女男の境は

 

もっとも身近なもの/ことは配偶者。日常の具体のなかから、ふたりの関係がくっきりと立ち上がってくる。妻に対する、自然体で無理のない距離のとりかたが桑原らしいのだと思う。

自然体。それは謙虚さのこと。謙虚さとは、他者を誠実に受け止めること。だから桑原は、自らを平凡と規定できるのだ。

 

妻は妻のかなしみをもて家中に花かざりゆく雨の日曜日

 

なにかかなしいことがあったのだろう。なにがあったというわけではないのだけれど、なんだかかなしい気持ちでいっぱいになったのかもしれない。あるいは、かなしみの力で、なにかを振り払おうとしているのだろうか。そんな妻を見ている。

桑原は妻の気持ちとその行為をありのままに受け止めている。そう、けっして声をかけたりはしない。「雨の日曜日」。せっかくの休日だけど、雨が降っている。でも、だからこうしてふたりで家にいることができるのだ。明日からまた、仕事がはじまる。初句の六音と妻という語のリフレインが、一首にニュアンスを与えている。

かなしみやおかしみなど、私たちの日常はさまざま感情から成り立っている。そうした感情をそのまま受け止めること。たとえば同情や批判といった態度を持ち出さないこと。

 

今日よりは〈扶養家族〉となりし妻その肩に手を置けばふりむく

坂の上に湧く白き雲 いまはただその雲めざし車椅子押す

 

歌集『妻へ。千年待たむ』(2007年)から引いた。一冊の「はじめに」は、「妻が脳動脈瘤破裂で倒れた」と書きはじめられている。妻もやはり教員として働いてきた。妻であり、同志でもあったのだろう。その妻が職を離れ、〈扶養家族〉となった。

雲はきょうも、桑原の近くにある。